35. 文フリTOKYO

足を運んだら力をもらえるのではないかと数年ぶりに訪れてみたが、いつの間にか入場が有料になっていて、それでもこんなに盛況だったっけというぐらいに盛況で、詩歌ブースにこんなに人がいるなんて新しい時代が来てるんじゃないのと思うほど。一昔前のこのジャンルはこんな雰囲気の人たちっていうのもなくなってた、偏見が含まれていなかったかを完全否定はできない上に、自分のことは別として。この場所で思ったのは、自分の熱量で誰かを羨ましがったりするのは間違っていたなってこと、残念ながらこれほどの熱は自分にはない。道が違う、これだけが正解ではないのも確か、それでも。

なぜこんなにも指が重くなったのか。けっきょくのところは需要がないにつきる、投稿を主にしていたころは投稿自体が楽しかったり掲載が嬉しかったりしていたが、そこに対するそういう感情がなくなると、何を支えにして続けるのかがわからなくなった。各種SNSがよくなかったのかもしれない、書き手として輝かしい人がいたり、つながりがあって楽しそうだったり、自分が書き手として自己肯定が高くなっても、虚しさが募った、全盛期の頃にもっとネットの進化などがあったら変わっていたか、でも忘れてはいけないのはいまの自分が気に入らないわけではないんだ、どちらかといえば理想の人間像には近づいている感じはあり、そう考えればすべて正しくはある。何もなくとも続けられるのが才能だとも思う反面、それは狂気であるしファンタジーだとも思う、少なくとも成功者にとやかく言われたくはない。それでも捨てきれないこの状況が何であるか理由はわからないが、何となく付き合えるようになってきた気はする、絶対的に感謝はしているよ、ありがとう。やっぱり書きたくはあるよね、これだけは真実かな。

後に用事があったからさくっとした動きでタイミング的に挨拶できない人もいた、でも一度お話をしたかった人、宮尾節子さんと話ができて、やっぱりわたしはこんな人になりたいんだと改めて思った。そう、いつだって自己研鑽で、どういう自分になりたくて、人にどう向き合えるか、それでしかなかったはずだ。それが詩であったんだ。時々思い出してはすぐ忘れてしまう、こう在りたかった、その追いかける手段がいまの段階では詩ではないものだけど、近づいていっている、大丈夫、たぶんまた書ける、戻る、目の前が落ち着いたらきっと、またきっと。いつか「身体に気をつけて」と、自然に手を差し出せますように。

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