バス停でおばあちゃんに話しかけられて考えたこと

居住区の病院へ行くため、近所のバス停でバスを待つ。先客がおり、少し離れた歩道の脇に立った。

曇天の中、バスは少し遅れていた。すると先客が急に私の隣に立ち、話しかけてきた。

そのおばあちゃんは、昔は社宅がある新宿に住んでいたが、定年後都心に出やすいこの地域に引っ越してきたそう。前は自転車であちこち行っていたが、一度自転車で転倒してしまったこともあり、今はシルバーパスがあるからバスを使っていると教えてくれた。「でもバスだと時間かかるのよね、不便だわ」と笑っていた。

おばあちゃんが気さくに話しかけてくるので、最初は相槌を打つだけだった自分も、自然と「自分は病院に行くのだがバスがあちこち立ち寄るため、時間がかなりかかるんですよね、この地域は区内の移動がバスしかなくて意外と不便ですよね」と話をしていた。

話しているうちにバスが来て乗り込む。車内は混んでいたのでそこで場所が離れ会話は終わったのだが、満員の車内では隣り合わせた年配女性たちがあちこちで会話に花を咲かせていた。この数分の出来事で、年配女性のコミュ力の高さを実感し、翻って自分のコミュ力の低さ、雑談の下手くそさを痛感した。

ちょうど昨日、職場でとある交流イベントを企画していた。思ったより人が集まらず、モヤッとしていたのだけれど、交流会の中での自分の立ち回り方を思い返すと、圧倒的に自分の話を自分から始めるのが下手くそだった自分に改めて思い至った。

それでも企画した側なので、来てくれた方と交流しないと、という使命感で初めての方と会話をするように気をつけた。ここでもう1つ気づくのが、「自分が話したことがない人と交流したい」とあまり思っていなかったことだ。知り合いが増えれば、確かに仕事はしやすくなる。しかし普段仕事で絡みがない相手だと別に知り合ったところでねえ…と思ってしまう。

一方で交流会ではなく、打ち合わせやミーティングなど話し合う目的がある場では、その進行をしたり、自分の意見を言ったりするのは苦にならないのだが、交流を目的にした場に立つと途端に話せなくなってしまう。職場の飲み会でも、なにかの勉強会の懇親会でも、だれかそのテーブルの会話を牽引してくれるおしゃべりな人がいると安心する。

昔から、クラスで友達を作るのが下手くそだった。苦い記憶の蓋が開く。何を話せばいいかわからなくて、教室の放課の時間が嫌いだった。大学でも同じ学部では友達ができず、今も繋がっているのは一緒に活動をした部活の友達だけだ。

初めて会った人に自分の話をしても、たいした話もできないし、相手は自分なんかに興味ないのでは?と思ってしまう。この思考はどこから来ているのだろう。

コミュニケーション力があるとはどういうことだろうか。今日のおばあちゃんから学ぶとすれば、まず自分から自分の話をし、相手が自分も自分のことを話そうと自然と思えるようにすることなんじゃないだろうか。

実際、先月入院していた時に同室のおばさんと話せたのは、おばさんが自分がなんで入院してるかを話してくれたからで、私も自分の状況を話すことができた。

次に交流会をするときは、思い切って自分から自分の話をしてみようかな、きっと…多分(笑)

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