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「ご自由にどうぞ」の記憶から考えた日本語が「あいまい」な理由

何年か前、住んでいたアパートの前に「ご自由にどうぞ」と紙を貼り出して、使わなくなって部屋で邪魔になったキャリーバッグを2つ、置いてみたことがある。

まあ、1つでも持っていってもらえたらラッキーと思って、道端に置いたまま出かけて帰ってくると、シルエットが1つになっていた。

このご時世でも「ご自由にどうぞ」やってみるもんだねと思いながら近づき、よく見ると、置いた覚えのないキャリーバッグに置き換わっていた。

確かに…「ご自由にどうぞ」としか書いていないのだから、持っていくのも自由だし、代わりに別のものを置いていくのも自由だ。そして、「ご自由にどうぞ」を始めた責任上、この見知らぬキャリーバッグがなくなるまで見守ることになった。

結果的には、その後キャリーバッグはゼロになり、事無きを得たのだが、日本語ってどうとでもとれる、ある意味「便利」な言葉だなと思った。

あいまいな意思表示には、受け取り手が都合のよい意思表示で返ってくる。

日本語はいかに「あいまい」に表現するかに命をかけている節がある。それは、もしかしたら「島国」という地形の産物ではないだろうか。

日本が海に囲まれた「逃げ場がない」国で、そこで生きて行かざるをえなかったからこそ、言葉はあいまいさを帯びていったのではないだろうか。意思表示をはっきりせず「あいまい」にしてお茶を濁すことで、日本人は「逃げられない場所」で「逃げて」きたのではないだろうか。

ちなみに、その手放したキャリーバッグは、町中でたまに同じものを見かけ、その度に、あの夏の日の「ご自由にどうぞ」を思い出すのだ。

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