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名もなき居酒屋で過ごす愛おしい時間について

 20歳以降の人生の7割は酒によって作られ、狂わされ、救われたと言っても過言ではない。

 いつからだろうか、人前でも恥じらいなく「お酒」のことを「酒」と言うようになった。親しみが込められすぎて、コンビニでもお店でも「お酒」と品良く書いているにも関わらず、私は「酒」を「酒」と呼ぶ。きっと酒もこの方が気負わずに済むと思う。
 私は酒を欲しているし、酒も私を欲している。この構図は絶対に崩れることはなく、今後とも酒とは二人三脚の人生を歩んでいきたい…。そう思っていたが、二人三脚の足並みが揃わなくなって早1年半が経とうとしてしまっている。

 私たちは気軽に酒を飲めなくなった。正確に言えば、家で酒を飲めるのだがなんだかしっくりきていない。私はどうも、酒が好きなのではなく「居酒屋で酒と共に過ごすひと時」が好きだったのではと、外で酒を飲めなくなってから、こんな大切なことに気付いたのである。

 ある程度身なりを整えてから家を出て、家よりも汚い空間で酒を飲むことにこそ価値があったと気付かされたときにはもう、店主の心が滲み出ている哀しき手書きの休業の知らせが扉に貼られ、居酒屋の灯りは消えていた。

 私たちはいつも、失ってから大切なものに気付く。3度目の緊急事態宣言までは、「またしばらく会えなくなるね」と心の中で冷えたジョッキビールに別れを告げる程度で整理できた。 
 しかし4度目の今回は、やっと再会できたヒエヒエ生ビールに頬ずりでもしてしまいそうになるのをぐっと堪え、赤ちゃんの握り拳くらいしかない名も無き料理をつまみだし、「コレコレ!!!!!!!!」と居酒屋の虚無から得られる謎の満足をエサにエンジンがかかり始めた矢先のものであった。こんなことなら、ずっと3度目が続いていたほうがマシであった。

 今まで行った全ての居酒屋に「大丈夫?元気してる?」と顔を出したい。今まで行った居酒屋の9割は店の名前も場所も覚えていないし、今まで行った居酒屋の全店員が私の事を覚えているはずもないが、顔を出したい。
 店と私の間に何の絆もない。今後生まれることもほとんどないであろう。そして居酒屋で過ごした時間というのは、何の生産性もない。けれど私は、居酒屋で酒を飲みたいのだ。

 梅水晶が食べたい。あれは居酒屋でしか食べられない謎の食べ物。
 生ビールに疲れ、焼酎に行くにはまだ早く、ハイボールの炭酸もきつい…と言うときにうってつけの、何で割られたかは知らんが、絶対に大五郎以下の質の何かしらのアルコールで作られたお茶ハイを飲みたい。
 本当に集中しないと頭に入ってこない、独特な手書き文字が敷き詰められたペライチのメニューを必死に読みたい。
 行くつもりなど微塵もないが、世界一周旅行のポスターを見たい。
 「け 19」の板を失くして帰り際にバタつきたい。
 呼べば威勢が良い返事と共に注文をとりにきてくれて、酒を頼みまくる度に明らかに呂律が回らなくなっていく私たちを見ても顔色一つ変えずに元気に接してくれるおじさん店員に会いたい。
 会計時の記憶は失われているものの、次の日iPhoneの電卓を開くと割り勘された形跡のある数字の羅列を見て安心したい。
 終電まであと1時間半あると豪語しだし「意外と遅くまで電車あるね〜」と褒められてから、「終電まであと8分」になるまでは体感5分なので気をつけなければいけないのに気をつけられず、駅まで爆走したい。
 無事電車に乗れるも、無事最寄りを乗り過ごし「最悪、気付いたら終点だった」と飲んでいたメンバーに報告するも皆既に就寝済みで、孤独と寒さに耐えながら家まで運んでくれるタクシーを命懸けで探したい。
 「もう二度と酒は飲まない」。と18万2365度目の宣言をしたい。

 居酒屋で過ごす時間に、有益性など何もない。けれどたしかに、この虚無からしか得られない心地よさと充足感があるのだ。そして何より、この「名もなき居酒屋で名もなき食べ物と安酒を飲み居酒屋と同等のタクシー代を払ってまで家路に着く」というパッケージプランでしか解消されないストレスがあるのだ。

 いつになればまた、居酒屋で笑って過ごせるのだろうか。いつになればまた、イキって頼んだは良いものの熱すぎてグラスを持てない芋のお湯割りにキレられるのだろう。いつになればまた、居酒屋の店員さんに「すみません!大丈夫です!ごめんなさい!とりあえず…おしぼりいただけますか!?」と言えるのだろう。

 居酒屋で当たり前のように過ごしていた全ての一瞬が愛おしい。こんなにも尊く、自分にとって大切な時間が居酒屋でうみだされていたのだと気付かされる。名もなき居酒屋こそ、私のオアシスであり、テーマパークであり、帰る場所なのであった。

 居酒屋を求めて彷徨う私の亡霊が、西友のアルコールコーナーに陳列されているストロングゼロに手を伸ばす。しかし、私が欲しいのはこれじゃない。こんな量でバチキマるような、飲みやすい酒じゃない。
 あの温度、匂い、明るさ、雑音の全てに早くもう一度会いたい。そして早く、言わせてほしい。「すいませーん!中3つくださーい!」

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