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「虚構の旅」

 いつだったか、二日酔いの頭を抱え、だらしなく寝そべりながらテレビを眺めていると、香港の風景が映し出された。観ると、テレビ東京の『未来世紀ジパング』という番組の再放送だった。
 香港が中国に返還されて約二〇年。家賃の話から始まったその番組を観ていて、香港に行ったときにガイドの男が口にした言葉がふと頭に浮かんだ。
「日本と同じです。物価が上がって、生活は苦しい」
 二〇一七年一月にタイへ行き、海外旅行の魅力にすっかり取り憑かれて、翌月香港に行ったときのことだ。
 神妙に話を聞いている老夫婦もいれば、そんなことは関係ないとばかりにくっちゃべっているおばちゃん連もいた。旅行代理店のやけに大きなそのバスの車内にいるのは、ガイドと運転手を除いては日本人だけだった。
「バクガイ。中国人、香港に来てバクガイします。これ、日本と同じです。でも、日本のバクガイとはちょっと違う。中国人が香港でバクガイするのは、マンションです」
 バスはちょうど香港島巡りの最中だった。かなり雑な言い方をすれば九龍クーロンが下町エリア、こちらは湾を挟んでの山の手エリアだ。五〇がらみのガイドはすっと視線を逸らし、窓の外へ顔を向けた。
「香港、土地が狭い。でも、地震ありません。マンションいっぱい建てます」

リゾート地、レパレスベイ(香港・香港島)

 実際、香港の建築物には目を見張るものがある。横に広げるという発想は最初からないらしい。これは無茶なんじゃないかという具合でも、とにかく上へ上へ、高層ビルがびっちり建ち並ぶ。
 ガイドの話では、そんな高級住宅地に新しく建てられるマンションのほとんどを「中国人」が買い占めるという。しかし、その「中国人」が只者ではない。要するに、表面上は土地を持てないことになっているお偉いさんや共産党幹部が香港に資産を逃がしており、最後に行き着く先がマンションだというのである。
「今ここにある建物、夜になっても真っ暗。住んでいるわけじゃない。あ、ジャッキー・チェンも住んでないよ!」
 いったい何度この話を繰り返したのだろう。流暢にガイドが言うと車内は笑い声に包まれた。
 眉唾な内実を話すことでお気楽な観光客に満足してもらおうという魂胆ももちろんあっただろう。しかし、興味を引かれるのは「中国人」という言葉をやたらと彼が口にすることだった。

 香港の歴史についてよくは知らない。元々はイギリス領で日本軍も進駐した時代があり、ベトナム戦争時に記者が中間地点として設定したのも兵士が休暇を取るのも、ここ香港あるいはバンコクだった。知っているといえばその程度のことだ。
 たとえば、沢木耕太郎『深夜特急』にはこんな描写がある。
 旅を始めて間もない「私」が九龍クーロンの中華料理屋で知り合った若者の家へ行き、メイドさん(中国語で「阿媽あま」)と対する場面だ。

恐らく私のことを紹介してくれたのだろう、張君が中国語で何事か言うと、阿媽は不意に鋭い一瞥いちべつを私に向け、あとはほとんど無視するような態度を取りはじめた。
 張君にとっては阿媽のその態度は思いがけないものだったらしく、困惑している様子がありありとうかがえた。私がそろそろ行きませんかとうながすと、張君はホッとしたように椅子から立ち上がった。
 外に出てから張君に訊ねた。
「彼女にどんなことを言ったの?」
「日本人、だって……」

沢木耕太郎『深夜特急〈第一便〉黄金宮殿』一九八六年

 沢木耕太郎の描く香港は返還前の、一九七〇年代の香港だった。だから本の中に書いてあることと実際の香港が違っても、それは当然である。
 そんな書籍版の『深夜特急』と大沢たかおが主人公を演じる映像版の『劇的紀行 深夜特急』(一九九六年)で異なるのは、実は香港より中国の姿だ。
 書籍版では「勒馬州の国境展望台」から見える深圳シンセンには「中国大陸の広大な水田地帯」が広がっていて、「水田の間にポツリポツリと小さな集落があり、昼食の仕度でもしているのか煙がたなびいている家もある」。しかし映像版では高層ビルが建ち並び、張君いわく「十年前三万人だった街が今じゃ三〇〇万人」の人口になっているのだ。調べてみると、二〇一〇年の深圳シンセン市の総人口は一三〇〇万人にまで膨れ上がっている。
 香港の尖沙咀チムサーチョイから深圳シンセンまで、電車で四〇分ぐらいだろうか。日帰りで国境を越えるのに何の問題もない。事実、香港から中国へ帰るのかその逆なのか、凄まじい量の野菜をビニール袋に入れて持っている人や家電製品のダンボールを両腕に抱え国境を越える人が何人もいた。

国境を渡り、しばらく歩いた場所にて(中華人民共和国・深圳)

 寝そべっていた姿勢から、いつの間にか普通に座りながら画面を観始めた目に飛び込んできたのは、若い女子大生の姿だった。
 名前をアグネス・チョウ。漢字だと周庭。何でも彼女は「民主の女神」と呼ばれているらしい。学生政治団体のスポークスマンだ。
 かつて香港では雨傘あまがさ運動なる反政府デモが起きた。一国二制度という自治が認められ、中国本土とは違った体制を容認する形で香港が返還されたにもかかわらず、実際は政府が愛国教育のカリキュラムを義務教育に盛り込もうとしたことが原因だった。
 このときの「愛国」がいったい何を意味するのか。土着の文化を大事にするのか、現体制を翼賛するのか、はたまたその両方か、どちらとも違うのか、それはわからない。
 しかし何にせよ、「愛国」と言ったときの対象は香港人と中国本土の人とでは、はなから異なってしまうだろう。確かに今香港は中華人民共和国の行政区の一つだが、二〇年やそこらでは、中国本土から来た人は香港人にとってあくまでも観光客、ガイドが言っていたように異邦の「中国人」なのである。まったく別の土地として存在し続けた時間、そこに断絶が生じるのは当然のことだ。
 テレビ画面を観ながら、強烈に心に響いてくるのは、香港の信号機の音だった。ピピピピピ、プププププ、テテテテテ……。寂しさを抱えながら、街をぶらついた記憶が蘇ってくる。
 ネオンの明かりが眩しい。道に突き出た看板は規制で禁止されたらしく、風景は予想と違ったが、人の多さは想像した通りだった。ビルの高さには字義のままにお上りさんになる。こちらが恥ずかしくなるくらいの都会っぷりだ。

『深夜特急』の舞台になった重慶大厦チョンキンマンション(香港・尖沙咀チムサーチョイ) 

 もちろん海外旅行につきもののトラブルもないわけではない。たとえば、九龍クーロンの目抜き通りであるネイザンロードを歩いていたときのことだ。メガネをかけた男に突然話しかけられ、制服姿の警官が背後に二人寄ってきた。都合三人に周りを囲まれたことになる。
「どこから来た?」
 どうやら最初の一人は私服警官のようだった。怪訝な顔をしたら、IDのようなものをこちらにかざしてくる。日本からだ、俺は日本人だ、と答えると
「パスポートを見せろ」
 と制服の一人がすかさず言う。
 やばい、と思った。必要なとき以外パスポートは宿に置いていくことにしていたからだ。
「アイドントハブ」
 そう言うと、その場の空気が一段と引きしまった気がした。ホテルのセキュリティボックスに入れっぱなしだと急いで告げたが、明らかに怪しんでいる様子だった。
 香港警察が汚職にまみれていたのは昔の話だが、腐敗や賄賂、そんな言葉が次々と頭に浮かんだ。そもそも彼らが本当に警官なのかどうかもわからない。ネイザンロードは人通りが多く、周囲にいる人が誰もこちらを気にしていないのを見て何となく安心しただけだ。
 警官は訝しげな表情を浮かべていた。ビジネスマンではない、手ぶらだ、英語もカタコト……そんな心の声が聞こえてくる。
 あっと思い、少し待てと言って財布を開くと三人とも手元を覗きこんできた。
 金を渡そうとしたわけではない。ホテルのカードキーがあったのを思い出したのだ。ここに電話してくれ、泊まっているところだから――そう言うと一人がカードを手に取って、まじまじと眺めた。
 彼らは少し話し合うと、一人がカードを返しながら真面目な声色で言った。
「次からはパスポートを持つように」
 颯爽と歩き去る三人の後ろ姿を眺め、ようやくほっと息をついた。
 どこの国の警官もこんなものだが、以降パスポートのコピーだけは財布の底にしまうようにしている。

九龍クーロンの目抜き通り、ネイザンロード(香港)

 香港島から九龍クーロンへ帰るスターフェリーの二等席に揺られながら、隣でボソボソと話し合っていた女の子の姿も記憶に残っている。日本語ではない。おそらく中国語だ。けれど、彼女たちが香港人なのか、台湾から来たのか、それとも中国本土から来た人なのかはわからない。
 その疲れ切った姿が印象的だった。一人の黒髪の子が片方に「写真を撮ろう」とスマートフォンをかざしながら言っても、その女の子はただ首を振るだけだ。
 友人の反応にさらにがっくり来てしまったらしい黒髪の女の子を見ながら、よかったら撮ろうか、と口まで出かかった。でも、それができなかった。
 湾の向こうに見えるビルの側面がパッと明るくなり、水面を照らした。「夢幻之旅」という文字が目に入った。思わずカメラを構えたが、撮り終えてからハッとした。
 もう一方の側面に“IMAGINARY JOURNEY”と書いてあった。“IMAGINARY”には「虚構の」という意味がある。「夢」や「幻」は「虚構」に過ぎない。「夢」や「幻」の中を歩む「虚構の旅」……。
「一〇〇万ドルの夜景」とは九龍クーロンから香港島を見たときに言う言葉だったろうか。それともビクトリアピークからの眺めか。いずれにしろ、消耗しきった少女の身にはこんな夜景も無為の、「虚構」のものでしかないのかもしれない。いや、むしろそれは眩しいだけに寂しく、切なく、厳しいものに映るのだろうか。

スターフェリーからの夜景(香港)

 *

 単純な二つのパターンが観光客にあるとするなら、一つは都会に来た人ともう片方はリゾートや田舎に来た人だということだろう。これは言うまでもなくその都度変わるが、香港に来る観光客はまず間違いなく前者だと言っていい。その都会っぷりを仮に香港人に喧伝されても、まったく嫌味ではない。それぐらいの街だ。
 蘭桂坊ランカンフォイのクラブで酒を飲んでいたとき、酔った頭で偶然話しかけた女の子二人組もそんな都会に来た旅行者だった。
 大音量の中だから声ははっきりと発さなければならないが、もちろん英語は話せない。単語も酒のせいでどこかに消えた。それでも、どこから来たの、ぐらいは言葉になった。
「台湾」
 右隣に座っている女の子の一人がそう言った。奥にいる子も半笑いながら、こちらの会話を聴いている。
「台湾ってどこだっけ?」
 いささか無礼な問いだが、ここからどのくらいの距離でどんなものが名物で何が美味しくて今何が流行っていてどんな国なのか、と英語で訊く力がない。またもや一人の子が英語で答える。
「すぐ近く」
 なるほど。そういえば、行きの飛行機で台湾を通り過ぎてきた。沖縄からすぐの距離だった。そう彼女たちに伝えたくても、言葉が追いつかない。ふーん、と相づちを打って唐突に訊いてみる。
「日本に来たことはある?」
 たどたどしい英語が面白かったのだろうか、彼女たちはお互い顔を見合わせてクスクスと笑い、
「北海道には行ったことがある」
 と片方の子が告げた。へえ、と声に出し「函館?」と訊くと「サッポロ」と答えが返ってきた。
 東京は、と口に出かかったが止めた。思わず考え込んでしまった。
 どこかの国をどこかと比べる、そんなことを無意識のうちに行っていたらしいのだ。しかも、そのどこかが今回は母国だった。
 彼女たちへの問いかけは、その国の首都はどうだったのか、それが香港と比べてどうなのか、結局そんなくだらないものへと繋がっていたらしい。
 黙っていると、彼女たちとの会話も途切れた。
 次に話をしたのは、大学生らしき男子三人組。香港のクラブは、音楽はガンガンに鳴っているが、見た目からしていかにも遊び慣れているといった感じの人は少ない。だから少し酔っている様子の彼らに話しかけられても身構える必要はなかった。
「どこから来たの?」
「日本」
「へえ、日本か。まだ、行ったことないな」
 彼は「まだ」に力を込めた。つまり他の国にはいくつか行っているのだろう。嫌味に聞こえないところが、香港の若者の洗練された部分を覗かせている。
 彼らのうちの一人が何か訊いてきたが、大音量のせいもあってうまく聞き取れない。すると隣に座っている一人がスマートフォンを取り出した。
 つくづく便利なものだと思う。アプリに文字を打ち込むだけではなく、マイクに向かって話しかければすぐに翻訳してくれるのだ。
 この便利さを嘲笑する旅人も当然いるだろうが、これに何度救われたことか。彼らのうちの一人がスマートフォンの画面を見せてくる。
《円を持っていますか? 見たことがありません。私はそれを見たいです》
 いかに旅慣れていないとはいえ、この手の詐欺が頻繁に起きることぐらいは知っていた。いくらかの紙幣を見せると、そのうちの何枚かが抜かれているという身も蓋もない手品だ。
 しかし、次の瞬間には財布を開いていた。一枚なら抜くも消すもないだろうと思ったのだ。
 こちらのなけなしの一万円札を彼はバーカウンターの明かりに透かして見た。
「偽物じゃないよ!」
 そう言うと彼は笑って福沢諭吉を指差し、首を傾げた。
 人は天の上に、いや天は人の上にだったか、どうでもいい逡巡をしたが、そもそも英語で伝えられるはずもない。「有名な大学の先生だよ」とだけ言うと、今度はこちらを指差す。どうやら同じ大学の人間なのかと訊いているらしい。
 必死に首を振ると、彼は声を出して笑い、
「これはいくら?」
 と訊いてきた。
 スマートフォンに入っている為替レートのアプリを使い、香港ドルでいくらになるか示すと、彼は財布から順々に紙幣を取り出した。
 偽札だろうか。いや、そうでなかったとしてもレートはあくまでレートである。ここで直接彼とやり取りするとこちらが得をしてしまう。正直に事情を説明すると、彼は残念そうに
「そうかあ」
 とだけ言った。
 しばらくの沈黙の後、彼はスマートフォンを取り出し、何か打ち込むとこちらに画面を見せてきた。
《感じて》
 彼は肩で音楽のリズムに乗ってみせる。音楽を身体で感じてくれということだろう。頷いてこちらも不器用に肩を動かす。何度かそんなやり取りをし、笑って乾杯。それを繰り返す。
 しばらく彼らと話したが、やはり騙す気など毛頭なかったらしい。海外で用心に用心を重ねること自体は悪くないにしても、親切に話し相手になってくれた彼らを一瞬でもそういった目で見てしまった自分を恥じ、そしてそんな感覚が旅を狭苦しくしているのを感じつつ、時間は過ぎていった。

ホテルからの眺め(香港・油麻地)

 ホテルの部屋に戻り、日本より高い値段のマルボロに火をつける。よく確認もせずに買ったせいで、慣れないメンソールの味がする。
 かなり狭いが、窓だけはやけに大きなホテルだ。そこから見える風景はいかにも香港の雰囲気を漂わせている。いつまでも消えないネオンの光、公園にたむろする人々、そこかしこを行き来する観光客……香港では夜に外出しない方がいいなんて海外旅行のルールも無用のものだろう。
 少しの孤独を感じながらかつての香港を考えてみる。だが、やはり住んだことのない身にはわかりようもない。彼らが今後「中国人」とどう付き合っていくのかもわからない。
 しかし、その日会った若者たちは紛れもなく香港の現代人だったことは確かだろう。
 香港の若者の姿は自分が日本で知り合った中国の若者に、さらに言えば日本の若者にも似ている。当たり前のことだ。どこの国に行っても若者は若者でしかない。

 それから数年が経った。甘い感慨だったと今は思う。「夢」や「幻」が見られるのは一瞬のことだ。現実は過酷である。辛く、冷たく、情け容赦がない。世界は刻一刻と変わり、暴力はとめどがなく、ますます人間は孤独になっていく……。
 かつて開高健はベトナム戦争を取材し、「ベトコン」(南ベトナム解放民族戦線)の少年が銃殺刑に処される場面を目撃してこう書いた。

人間は何か《自然》のいたずらで地上に出現した、大脳の退化した二足獣なのだという感想だけが体のなかをうごいていた。私はおしひしがれ、《人間》にも自分にも絶望をおぼえていた。数年前にアウシュヴィッツ収容所の荒野の池の底に無数の白骨の破片が貝殻のように冬の陽のなかで閃いているのを見たとき以来の、短くて強力な絶望だけが体を占めていることを発見した。

開高健『ベトナム戦記』一九六五年

 まったくそうだ、その通りだ、と思う。最初読んだときには読み流してしまった一文が、今僕の心を捉えて離さない。
 開高は戦時下のベトナムに行き、そこで現実を見た。見てしまった。それは文字や映像で目にする、あるいは自らが形作ってきた甘美な「虚構」とは違った。ゆえにそこには「絶望」だけが残った。
 しかし、それを確認するためにも、現実が「虚構」を打ち崩してしまったとしても、香港にはもう一度行ってみたいと思っている。一縷の希望がなければ「絶望」もまた、ない。

(了)

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