日蓮聖人の地涌菩薩への着眼点の系譜の一考察

日蓮聖人の地涌菩薩の思想が天台宗円珍の思想及び蓮華三昧経に関係していた可能性について。

日蓮聖人が法華経中心主義に成ったのは比叡山の遊学期間中であったとされているが、法華経中の地涌菩薩への注目に至った経緯は明らかではない。ただ、自らを「上行菩薩の垂迹」(頼基陳状 日興写本 定本1352)と自負するほど地涌の菩薩に対しての意識を持たれているのは事実である。では、法華経中においてこの地涌菩薩たちを重視した思想的な背景や流れというものがあったのか、これについては不明な点が多い。

元来、法華経において地涌の菩薩という存在を重視する者は、少なくとも日蓮聖人の主張の根拠とした中国から平安初期に関しての天台教学や仏教界にはそうなかったと考えられる。勿論、記述が無かった訳では無いが、例えば中国天台宗が重視した禅(つまり、天台止観)などに関する記述と比べればそう多い訳ではない。また日本天台宗の始祖、伝教大師においても地涌菩薩を法華経弘通の存在として認めつつも、やはりそれを主題にしたと言える教理は他の仏性論や戒壇論などに比べると薄い。これはまた弘法大師自身が「十住心論」の法華経や天台宗の項目において、地涌の菩薩については一行程度でしか触れられていない事からもそれを物語っているだろう。

またその後に出た慈覚大師円仁においても、法華経修行者のコースである止観業出身でありながらも法華経と密教の関係に終始しており、法華経教理に関する著作はありつつも、やはり密教との関係や相対(優劣)に組み込む事に集中している。

ただし、両者の立場を助けると、伝教大師の自身の教理を述べたものは、その多くが法相宗徳一などのいわゆる「論争」の為の書籍であり、また円仁においてもやはり新来の密教と天台教理をどう位置づけるか、という課題に追われていた為、これらの点は仕方がない所もある。

では、法華経に対する思想というものを進歩させた人物は誰かというと、それは智証大師円珍では無いか、と思われる。円珍の教理はほとんど円仁義と変わらないが、ただし円珍の著作には法華経を解釈したものが数多く、また円仁よりも法華経を密教化させるという点に尽力している。さらに法華経を密教曼荼羅で顕わした、いわゆる「法華曼荼羅」を開発した人物でもあり、法華曼荼羅自体は伝教大師の時代にも既に「妙法蓮華曼荼羅」なるものがあったが、多くの点で欠点があると言える。蓮華三昧経成立の時点で他にあった三種類の法華曼荼羅、大日経疏の曼荼羅、観智儀軌に依る曼荼羅、威儀形色経に依る曼荼羅はそれぞれ欠点があった。大日経疏説は後述して、観智儀軌曼荼羅には法華経に登場する地涌菩薩がそもそも載せられないばかりか、法華経に登場しない菩薩や明王を登場させており、法華曼荼羅としては本髄を顕わしていない。(威儀形色経は観智儀軌と類似する為、割愛。) つまり、それらを補って完成した結果が蓮華三昧経における法華曼荼羅と言えよう。

蓮華三昧経というのは円珍の時代かその後くらいに作られた偽経で、なおかつ円珍義にかなり近い内容(著作の講演法華儀と酷似)で作られている。頻繁に活用されるようになったのは円珍より後の安然の時代であり、蓮華三昧経は円珍が唐において会得した蓮華三昧経(正式名称は妙法蓮華三昧秘密三昧耶経)十巻のうち、その大切な部分のみを抜いて持ち帰った、としているが智証大師の目録には見当たらず、またこの書を頻繁に用いた安然も「空海請来」としている。

その蓮華三昧経を元に作られたバージョンの「法華曼荼羅」には法華経地涌の四菩薩を妙覚仏、つまりは完全に悟りを開いた仏様として扱っている。これは蓮華三昧経以前に作られていた大日経疏を元にしていた法華曼荼羅(胎蔵三重曼荼羅を基礎にして法華経曼荼羅を作ったもの。妙法蓮華曼荼羅とも。この大日経疏による曼荼羅が初出の法華曼荼羅。)とは全く異なるもので、この大日経疏説の法華曼荼羅は三重に構成されるが、そこでは弥勒菩薩を一陣目、地涌菩薩を二陣目と、地涌の菩薩を弥勒菩薩より下位に置いており、その事を円珍の著作である「些々疑文」では第一重の弥勒菩薩が何故、地涌菩薩を知らなかったのか、上が下を知らないという失が生じるのではないかと批判している。つまり、円珍義、あるいは円珍以後において、この地涌菩薩というものが持ち上げられるようになったのである。(勿論、大日経疏も観智儀軌の法華曼荼羅と比べれば地涌菩薩を重視しているが。)


考察するにこの事が比叡山と三井園城寺を遊学した日蓮聖人に「地涌菩薩」に対して目を向ける事と成ったのではあるまいか、と考える。

それは日蓮聖人はこの蓮華三昧経を読んでいると思われる点が見られる事。例えば、日蓮聖人は多宝如来を金剛界胎蔵界両部の大日如来を統一した存在とし、更に金胎両部の大日如来は多宝如来の眷属であると報恩抄で解釈しているが(原文 月氏には教主釈尊、宝塔品にして、一切の仏をあつめさせ給て大地の上に居せしめ、大日如来計宝塔の中の南の下座にすへ奉て、教主釈尊は北の上座につかせ給。此の大日如来は大日経胎蔵界の大日・金剛頂経金剛界の大日の主君なり。両部の大日如来を郎従等定たる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ給。此即法華経の行者なり。 定本1219)これは多宝如来が大日如来の印相である智拳印を組むとする事と、釈迦多宝の同座が金胎両部の一致の儀式を顕わす事を説くのが蓮華三昧経だからである。(威儀形色経にも智拳印の事は説くが、一致統一については述べない。) 

さらに日蓮聖人は円珍義を度々御書や註法華経に引用しており、晩年の円珍の著した『授決集』をわざわざ佐渡にまで届けるよう弟子の長老格である日昭上人に要請している。(『弁殿尼御前御書』(真蹟 中山法華経寺)には「三郎左衛門尉殿に候文のなかに涅槃経後分二巻・文句五本末・授決集抄の上巻等、御随身あるべし。」と述べている。定本752) この『授決集』は一部に後世の加筆があるものの、三井園城寺の「伝法の印信として授くる所の秘訣」とする書であり、従来の天台義とは異なる部分もある、円珍義における重要な書物なのである。(そしてそれを入手出来るのは、日蓮聖人の弟子でありつつも幕府との繋がり深い天台の高僧という顔を持つ日昭上人だからである、という部分もあるだろう。) つまりは、日蓮聖人は円珍を密教者として批判しつつも、同時にその著書に深く影響を受けているのだ。この点を考えると、日蓮聖人が地涌菩薩に着眼したのはこの智証大師円珍の影響も一つあったのでは無いか、と考えられる。

以上、まとめると日蓮聖人が地涌菩薩に着眼したのは地涌菩薩を持ち上げた存在である智証大師円珍の教理、及び蓮華三昧経の影響である可能性が高く、また日蓮聖人は円珍義及び蓮華三昧経自体の影響や学問も修している。故に、日蓮聖人自身の教学を極めていくのであれば、やはり智証大師円珍の教学は不可欠であり、そうした天台密教の教理から、また新たな可能性が明らかになるのではないか、と考える。

令和二年十一月八日 日蓮宗沙弥聖明(西嶋聖明) 記

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