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能楽堂で上演して、650年続くサステナブルのヒントを垣間見た

こんにちは。
演劇家の藤原です。

前回の記事
『チームでアイディアの相乗効果を生むためのヒント』
の続き、
mizhen『小町花伝』能楽堂公演(10月23日(水)@東急セルリアンタワー能楽堂)を経て気づいたことを書きたいと思います。

「演劇」の上演は、関わる人が多いので、なんといっても人件費がかかります。大きな公演になればなるほど、チケット代をガンガン引き上げていかないと採算は取れず、大きな劇団でも純粋なチケット代の収入だけで利益を上げるのは難しく、スポンサーを募ったり、助成金がないとなかなか厳しい。
海外に招聘してもらうことでどうにか採算を合わせたり、どこもあの手この手でどうにかやりくりしている、という状況です。

さて、今回の企画を発案してくださった能楽師の安田登さんの著書に、
「能 650年続いた仕掛けとは」 というものがありますが、

今回、能楽堂で公演をして、650年も続いてきた「サステナブル」のヒントを垣間見たので、そのことについて。

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■舞台も道具も、何百年使う前提!
能舞台には、必ず白足袋で上がらなくてはいけません。なので、私達も白足袋を着用しました。檜の舞台に、汚れや垢、人の油がつかないようにするため、徹底されています。
今回、小道具で杖を使いましたが、その杖の裏には滑り止めのゴムがはめてあるので、それを布で包んで、ゴム跡が付かないように気をつけたりしました。
また、私達は使いませんでしたが、見学のときに能で使う道具を色々見せてもらいました。パーツで分けられるようになっているものが沢山あり、演目によってそのパーツで組み立てて使うのだそう。

能舞台では、道具は使われますが、基本的になにもない舞台から始まり、道具を持ち込んでも、最後はなにもない舞台で終わります。
演劇でよくある舞台美術をごりっと立て込む、ということはありません。

もともと私はほぼ美術がないような中、俳優の身体だけで表現するような作品が好きだったので、能に惹かれるというところもありますが、

何百年も使う前提で作られた道具は、減価償却はとっくに終わってます笑。
一度作ったものをどういう風に使っていくか、その演じ方を変化させて見せていく、という考え方は、自分たちにとってもヒントになる気がしました。


■舞台監督、スタッフ等がいない!基本演者だけ。
演劇を上演するにあたって、俳優・劇作家・演出家の他に、舞台監督や照明家・美術家・音響スタッフなど、様々なスタッフが参加します。
能は、演出家もおらず、スタッフもいません。基本的に、演者だけで成立します。
通常演劇の現場だと、本番の数日前に劇場入りをして、俳優が立つ位置をチェックしたり、照明や音響をどういう風にするかを実際の舞台と照らして合わせたりする時間、本番通りのリハーサル(ゲネプロといいます)をする時間があります。このスケジュールの仕切は、舞台監督がやります。

能だと、「申し合わせ」という数時間の「ちょっと合わせてみる」という時間しかなく、(これもやらないこともあるそう)、舞台監督もいないので、特に仕切る人もいません。演者が勝手にやる、のだそう。

さっきも書いた美術や照明など、大きなスタッフワークがなく、演目に型のある能だからこそできることだとは思いますが、
今回の公演も能にならって「申し合わせ」の時間しかなかったので、
舞台上での確認は俳優にお任せして、わたしは照明チェックに専念していました。
最初「申し合わせ」が数時間しかない、と聞いたときは、「そんなん無理や!」と思いましたが、なんとかしようと思えばなんとかなるもんで、
人手が必要な現場も絶対にあるとは思いますが、俳優という仕事の役割、演出家という仕事の役割は、時代によって違うと思うと、その役割を絶対的なものと考えず、必要に応じて変化していくことがあってもいいんじゃないか、と思います。

■再演前提、何度も同じ演目をやること
「小町花伝」は、能「卒都婆小町」を原案に作ったものです。
ちなみに能の「卒都婆小町」は、能楽師が「60歳を越えてやっとできるような難しい昨日品」らしい。(ひえ〜。作るときそんなの知らなかった……)、

今回、初めて同じ俳優メンバーで再演をしましたが、再演、って、これまでの作品だと正直あんまり気が乗らなかったのです。なぜかというと、飽きてしまうから……。
でも、今回再演してみて、能「卒都婆小町」を下敷きにしているからか、考えても考えても、まだまだたどりつかない部分がたくさんあり、きっと再演するたびに発見があるのだろう、と思いました。

能楽堂公演の第一部では、能「卒都婆小町」の朗読を、浪曲師の玉川奈々福さん、能楽師の安田登さん、狂言師の奥津健太郎さんが演じてらっしゃいましたが、
奈々福さんの演じる「小町」は、シャンとしていて、勝ち気で、芯がすっと通っている、私が想像つかなかった小町だったので感動しました。

落語なんかもそうですが、演じ手が変わるごとに楽しみがある。
何度も何度も味わうことでしか作れない作品との関係性があると思いました。演劇でも、シェイクスピアやチェーホフなどの、名作古典だと何度も何度も上演されますが、演劇で新作のものの再演というのは、(日本だと特に)それほど多くありません。

「小町花伝」は、何度も再演してみたい作品だし、
これから、再演したくなるようなものも、もっと作っていきたい。
安田登さんが、能は“文化資源”なので、石油のようにその要素をうまく使って色んな文化が生まれていって欲しい、というようなことを以前お話してらしたのが、ずっと残っています。
能から学ぶことが、まだまだ沢山あるはず。


photo by bozzo


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