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【短編小説】鍵の温度は36.8℃

──消えた鍵はたぶん、あそこにあるはずなんだけど。

通勤ラッシュ。地下鉄の中。スーツを着た人たちの頭頂部を視界の端に感じながら、真っ暗な景色に映った自分の顔を見て大きく息を吐いた。
少し、ため息に似ていた。不幸の空気に包まれた気がして反射的に息を吸い込む。
最近あまり眠れないことが原因なのか、窓ガラスに映る私は見るに堪えないほど疲れ果てた顔をしている。
安い照明を上から当てられたせいで、いつもより濃くなった目の下のクマが自尊心を傷つけていた。
こんなに体が疲れるようになったのはいつからだろう。ここ2年くらいで急速に疲れが取れにくくなっている。
加齢のせいにしてしまえば簡単だが、それ以外の悩みが首を締めていることは明白だった。

──絶対。間違って送っちゃったんだよな。

部屋の中で忽然と姿を消した鍵は、おそらく元カレと別れた際に送った荷物の中に紛れ込んでいるんだろう。
金庫の鍵を収納していた箱の中には、初めての誕生日に元カレにあげたピアスが入っていた。
大切なものをしまおうとお揃いで買った、寄木細工の箱が浮かぶ。
手作りだから微妙に風合いが違っていて、お互いに吟味して選んだはずなのに、間違えて自分の箱を元カレに送ってしまったのだ。

だけど、事は急を要する。もし鍵がないのであれば、早急にカギ屋を探さなければいけないし、もしもあるんだったら、早めに受け取らなければいけない。
できればあった方がいい。というか、なければまずい。疲れを取ろうと躍起になって、やたらとマッサージに通ったせいで今月はあまり余裕がない。

ハルトに電話しなければ。と泣きそうな決意と一緒に地下鉄を降りた。

 ***

その日の仕事終わり、自宅で景気付けのコーヒーを飲んでから、消せなかったハルトの電話番号を睨んだ。

会いに行くか、それとも電話をするか。LINEをするという手もあった。
その中から電話を選んだのは、無視されにくく、表情も見えないものを選びたかったからだ。
つまり、自分にとって一番ダメージの少なそうなものを選んだ。

電話のマークを一回タップして、画面いっぱいに電話番号が映し出される。

お願い、出て。いや、でもやっぱり出ないで。いやでも、出てくれなきゃ困るし、どうしよう──。

プツ。と機械音が聞こえた気がした。
切られた──?と思ったが終了音は鳴らない。
「もしもし」も「どうした?」も聞こえないスマートフォンを握りしめ、早く喋らなきゃ、と心が急いだ。

「あっ、のさ。あのさ。鍵、なかった?」
「久しぶり」

唐突な質問を無視した低い声がした。
懐かしさとともに少しの苛立ちが募る。
挨拶をしない私を咎めたような気がしたからだ。ハルトはよく、無言で行動を改めるよう促してきた。
あぁ、こういうところ嫌いだったな。と思う。

「久しぶり。ごめん。急に」
「元気?」
「うん」
「そっか」

変わらなかった。同棲する前のデートの後も、さっきまで会ってたのに必ず「元気?」と聞いた。
肯定を返すと優しい言葉が鼓膜を撫でた。
涙が出そうだった。鼻の奥に力を入れて、数秒止まる。
別れてしまったからか、今日はそっけなかったけれど、そういうところが好きだったな、と思う。

「鍵って、何」
「あーそう。そうなの。あの、別れたとき……」

そこまで言って、一瞬言葉に詰まった。別れという言葉を使うのが正しいのかわからなかった。
別れの理由が、思い出せない。

「うちから、出ていったあとに、私、荷物送ったでしょ。その段ボールの中に、鍵がまぎれてないかなって思って。多分、寄木細工の小物入れに入れてたはずなんだけど。うちのにはハルト……のピアスが入ってて。金庫の鍵なの。実印入ってて。使うから。その鍵がなくて困ってて」

結局言い直した。家から出て行ったのは事実だから。名前をいうのもためらった。呼び捨てにしていいのかわからなかったから。
どうして家から彼は出ていったのか。私はどうして止めなかったのか。荷物を送りつけるほど彼を憎らしく思ってしまったのか、もうわからなかった。
おそろいの寄木細工にいつまでも大切なものをしまっていた理由も。

「ごめん。まだ開けてないんだ」
「あっ、そうなんだ」

──2年もたっているのに?

「ちょっと待ってて」

ハルトの気配が遠ざかる。奥でわずかに音が聞こえた。
おそらく段ボールを開けているんだろうけど、息をひそめているかのように静かだ。
いつもそうだった。彼は静寂に生きている人だ。
起きていても歩いていても、寝ていても食事をしていても、彼は静寂だ。そういうところが好きだった。
だから……彼のいない静寂に慣れるまでに時間がかかった。

「あったよ」
「あっ」

安堵と落胆。鍵はあった。けれどあっさりと解決してしまったあっけなさに拍子抜けする。

「着払いで、送ってくれる?」
「住所、変わってない?」
「変わってない」
「じゃあ、今から届けに行く」

いや、いいよ。という私の声は届かなかった。
一方的に切られた電話から規則的な機械音が聞こえる。
こんなに強引な人だったかな。知らない一面に嫉妬に似た感情が湧いた。

10分ほどで、インターフォンが鳴った。
ドアスコープで確認すると、そこには2年前と少しも変わらないハルトがいた。こんなに近くに住んでいたんだ。
ドアを開ける。少し息を切らしたハルトは、ドア横の壁に手をついて私を見た。
ぼさぼさの髪にルーズなスウェット。のけぞってしまいそうなほど高い身長。ふわりと香る、香水。
変わらない、あの頃のままのハルトだ。

「ありがとう。ごめんね。わざわざ」
「いいよ」

ハルトの手にはむき出しのままの鍵が握られていた。
人差し指と親指で挟んだ薄い銀色は、持ち手の方を向けられた状態で差し出されている。
それを同じように2本の指で挟む。引き抜こうとしても、ハルトの指先は強く閉じたままだった。

「あのさ」

低い声が耳の奥を刺激する。お互いの目線は銀色の鍵にあった。と思う。私は下を見ていたからわからなかった。
小さな鍵をつまむ二組の親指と人差し指は、そこから少しも動かない。
冷たい銀色が体温で温められていく。まるで気持ちが伝わってくるようで、苦しくて胸が痛かった。

「なんで別れたんだっけ、俺たち」
「なんで、だったかな」
「ごめん」

謝罪の言葉に顔を上げると、少し遅れてハルトも顔を上げた。パチリと目線の合う音がする。

「未練がましい?」
「ちょっとだけ」

笑う。一瞬にして2年前にタイムスリップした。こうやって沢山、思ってもいないことで笑い合った。

「部屋、入る?」
「入らない」

予想外の言葉に傷つくと同時に、ハルトの指は鍵から離れていく。
泣きそうな顔になっているだろう。下がった目尻で瞬きすると、ハルトは泣きそうな顔で笑った。

「段ボール開けたらさ、ユウの匂いがして」
「ほんとに? 二年たつけど」
「会いたくなったんだ」

ハルトの手が私の右手を鍵ごと包み込む。ハルトの平熱は私の微熱。
少し高い彼の体温は、じんわりと疲れを取り除いてくれた。

「元気?」
「元気じゃ、ないかも」

彼がいなくなった2年前から、私の体はどうにかなってしまったんだ。
ほっとしたように頷いた彼は、一歩部屋の中へと踏み出す。かつて二人で過ごした部屋へ。

消えたと思った鍵は、彼の中で眠っていたらしかった。
カチリと錠の合う音がする。
金庫ではなく違うトコロを開けた鍵は、少しずつ、私の世界を元に戻していくだろう。


シロクマ文芸部さんのお題に参加しました。
今週も素敵なお題ありがとうございます!

以前書いたお題「街クジラ」はこちらです。


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