現代人は推しの命を軽く見ている。

僕は推し文化苦手だ。しかしそうなりつつつある自分もいる。自分がそれ歩み寄りつつもこの言葉の意味がどんどん拡大しているというところがある。一見すると関係なさそうなことも実は箱の中で複雑に絡み合う、一筋縄ではいかないのが難しさであり面白さでもある。そういうものを一緒に少し見つめて欲しい。

擁護、批判、意見する彼らは強い。様々な拡声器を持っているし、エネルギーもある。そしてここに僕はよく考えてみて欲しいことがある。意見をすることとは擁護、批判することなのだろうか。貶めること、讃えることを意見とは言っていないだろうか。そういう2極化議論が世の中を息苦しくし、推し文化とはこれと表裏一体のウェハーなのではないかと考える。なぜなら、推しが何か人を不愉快にさせるようなことをすればこの2極派閥が対立するだろう。推し続ける人は擁護、批判する人は批判。結局誰かの推しの存在の裏で擁護、批判されてしまう構図が、意見することの2極化を顕著にしているのではないか、と体感的な話ではあるが思っている。意見とは「見て思ったことを言う」これだけの事なのに、派閥争いと意見をごっちゃにしていないだろうか。どちらかに属さなければならないような風潮、袋叩きにするメディア、発言を弾圧し社会的に抹殺する人々。いじめはダメだが、悪しき思想が露呈した人間は徹底的に村八分。2次元3次元関係なく誰かの魂が含まれたものに対して多様性と言いながら多様性を狭めていることに気づかない。そんな愚かなことをこれからも続けていくのだろうか。

DaiGoさんも様々な人に推され信者がいた。そんな中先日のホームレスの方々に対する人権を無視した発言の件で一変。社会全体の批判の的になっている。しかしあれはあくまであの人の個人的な意見。当事者意識、社会性が低い発言だなとは思うが、当事者でもない自意識過剰なやつがとやかく言うことではない。第一彼が誰かの人権を侵害したとして侵害されたのは当事者だろう。彼に限らずネット配信者は常に批判と隣合わせにならなければならないような世の中になっているが、本質はその意見を拾うか拾わないかは視聴者次第であるということ。咀嚼する力があれば批判し社会的に抹殺することに注力はしないはず。仮に社会的に抹殺したいのであれば、雑魚犬みたいに吠え散すのをやめて、市場経済の中で正々堂々抹殺すべきだと僕は思う。メディアリテラシーと市場経済とは本来そういうものではないだろうか。讃え崇める中で自分の不都合を観測したか否かでその人の人生を天秤にかける。擁護と批判の2極化が顕著であるが故、"なぜ"が分からなくなってきてはいないだろうか。僕はそこに大きな憤りを感じる。人間誰しも違い、様々な意見を持っている。それを物であるかのように自分に都合よく解釈し崇め奉るか単なる鬱憤晴らしにするかの天秤にかけて自分を信者か閻魔にする。人徳倫理を一切感じない。その場その場の感情で動く拙さ。自分に対する戒めも含めそんなことで他人の人生を左右するなよ。もうやめろよ。

逆説的に推し文化は人の人生を軽く見ている気がして僕は苦手だし、そういう人間になりつつある。多神教と村八分の呪いに現代日本の息苦しさが潜んでいると、僕は思う。

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