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「ことばと思考 シップ」10 Viva La 実家

 実家暮らしの大人に対する世間の目は厳しい。私自身、39歳まで実家暮らしをしていたが「いいねえ、家に帰ったらごはんができてるんでしょ」などと言われることはしょっちゅうだったし、Googleの検索バーに「実家暮らし」と入れれば、「無理」「やばい」「ありえない」といった候補が並ぶ。
 そんな風に言われなければならないほど、実家暮らしはダサいのだろうか。甘えているのだろうか。子どもっぽいのだろうか。そこで今回は、実家暮らしが社会的にどんな見られ方をしてきたか、最近の動向もふまえつつ、見ていきたい。

実家を出るのが「ふつう」


 まずは「実家」という言葉について。『広辞苑 第七版』(岩波書店)には、このように載っている。

じっ-か【実家】①自分の生まれた家。父母の家。②婚姻または養子縁組によって他家に入った者から元の家をいう称。「家」の制度の廃止により法律上は廃語となった。さと。

 ②にある「家」制度は、1898年に公布された明治民法の「4.親族」「5.相続」の総称である。戸主(家長)に強大な権限を与え、「家の連続性」を重視していることが特徴で、子のうち一人は跡取りとして家に残るのが典型的だった。しかし戦後、家制度が廃止されると「家の連続性」は重視されなくなり、夫婦を中心に家族を形成し、子どもは成人すると親元を離れ、結婚しても同居しないケースが一般的となった。(以上『「家族」はどこへいく』(青弓社、2007年)第2章「戦後日本の家族はどう変わったか」(岩上真珠)より)
 そうした変化の中で、大人になったら実家を出るのがふつう、という規範が定着していったと考えられる。しかし、「家」制度のもとでも、跡取り以外の子がいつまでも実家にいたら、それこそ露骨につまはじきにされていたに違いない。実家暮らしの受難の歴史は深そうだ。

 では、実際のところ、実家暮らしの大人はどれくらいいるのだろうか。総務省統計研究研修所・西文彦の論文「親と同居の未婚者の最近の状況」(2017年)によれば、親と同居の壮年(35~44歳)未婚者数は、1980年にはわずか39万人だったのが、その後増加の一途を辿り、2005年には200万人を突破。2010年以降は300万人前後で高止まりしている。
 また、対象者の年齢を高年(45~54歳)で見てみると、1980年の18万人から2016年には158万人と、36年間で約9倍に増加している。さらに「基礎的生活条件を親に依存している可能性のある者」の割合も高いことから、西は「親子共倒れが間近に迫っている世帯が多く存在していることが懸念される」と指摘している。ひきこもりの問題においてよくいわれる「8050問題」(80代の親が50代の子どもを経済的に支える)とも重なるものがある。

実家暮らしの負の歴史


 実情がわかったところで、実家暮らしの大人がこれまでに社会からどんな風に見られてきたか、「負」ともいうべきその歴史を見てみたい。
 まず代表的(?)なのは、昔から小説やドラマによく登場する「ドラ息子」「放蕩息子」だろう。直接的に実家暮らしを意味しているわけではないが、仕事もせずに親のすねをかじって遊んでばかりいるイメージなので、実家にいると考えていいだろう。ここで気を付けたいのは、この蔑称が「息子」つまり男性に向けられていることだ。そこには「男性=働いて稼ぐもの」という前提があり、その逸脱を嘲っているわけである。
 では女性の場合はどうか。実家暮らしの未婚女性を指して「ドラ娘」「放蕩娘」というのは聞かない。それに代わるのが、少し前まで一般的だった「家事手伝い」だろうか。文字通り、実家で家事や稼業を手伝う立場を意味するが、そこには「ドラ息子」に込められる侮辱の色は薄い。ここにもやはり「女性=お年頃になったら結婚して家事を担うもの」という前提があり、お嫁に行くまでの数年間、親元で「花嫁修業」をして過ごすことは、逸脱とはみなされないためであろう。だから未婚のままであったり、離婚して実家に帰ったりすると、途端に「行かず後家」「出戻り」などと湿っぽく揶揄される。
 と、ここまではいわゆる「男は仕事、女は家庭」がスタンダードだった時代の話だ。そのモデルが徐々に崩れ、共働き世帯の割合が専業主婦世帯を抜いた1997年に、あの言葉が登場する。そう、「パラサイト・シングル」だ。

 「パラサイト・シングル」は、社会学者の山田昌弘が1997年2月に日本経済新聞に寄せた論説で使用した言葉で、「学卒後もなお、親と同居し、基礎的生活条件を親に依存している未婚者」を意味する(山田昌弘『パラサイト・シングルの時代』ちくま新書)。パラサイト(寄生)という言葉のインパクトもあってか、一種の流行語としてセンセーショナルに扱われた。
 山田は前掲書でパラサイト・シングルが「何の気兼ねもせずに親の家の一部屋を占拠し、親が食事を用意したりすることを当然と思い、自分の稼いだお金で、デートしたり、車を買ったり」し、「豊かな親という既得権に依存し、(中略)既得権にしがみついたまま、それ以上のうまいことがどこかにないかと夢みている」と説明。彼らの存在が日本経済を衰退に向かわせたとの分析のもと、「パラサイト・シングルを何とかすれば、日本社会は再び、発展の方向に向くのではないか」と、若者の自立支援政策や「親同居税」の導入を、対策として提唱している。
 こうした山田の見立ては、実際、的を射ていたのだろうか。2007年に行われた「社会保障実態調査」のデータをもとに、パラサイト・シングルとその親たちの状況を分析した「10年後のパラサイト・シングルとその家族」(鈴木亘、国立社会保障・人口問題研究所編『日本社会の生活不安』慶應義塾大学出版会)によれば、山田が描いたようなリッチなパラサイト・シングル像は、その後の10年ほどで大きく変容したという。景気低迷、就職難といった社会変化に伴い、「やむを得ず」パラサイト・シングルを続けるケースも多いと推測されている。
 こうした分析から見えるのは、パラサイト・シングルの増加というのは、社会の波をまともに受けた若者たちの身に起きたことであり、彼らが実家を出たところで、根本的な解決にはならないということだ。また、山田は「パラサイト・シングルの大量発生という現象は、世界的にみても例がない」と述べていたが、それも現在は当てはまらないことが、次に挙げる本で明らかになる。

『親元暮らしという戦略 アコーディオン・ファミリーの時代』(キャサリン・S・ニューマン、岩波書店)
 サブタイトルの「アコーディオン・ファミリー」とは「成人した子どもと親から成る複数世代の同居世帯」を指す著者の造語で、親の家がアコーディオンのように「その蛇腹を広げて戻って来た子どもを受け入れ、子どもが家を出ていくと今度はぎゅっと縮む」ことにちなんでいる。実家暮らしの未婚の若者が増加傾向にあるイタリア、スペイン、アメリカ、そして日本の4か国を中心に、300人以上の若者と親世代へのインタビューを行い、彼らの心理や社会的背景をもとに「実家暮らし」という現象を読み解こうとする労作だ。
 著者の分析によれば、実家暮らしに対する先の4か国の捉え方の特徴は以下の通りだ。イタリアは、成人した子と親が一緒に暮らすのは喜ばしいことだと、楽しもうとする。スペインもイタリアに近いが、そもそも若者が独り立ちできないような社会にした政府に対し、怒りを訴える傾向が強い。アメリカは、例えば進学やキャリアアップといった目標を達成するために家に残るのであれば受け入れるが、そうでない者には厳しい。
 ここまでは、各国の一般的なイメージ通りである気がするが、日本はどうか。日本では、実家暮らしという「怠け者世代」の登場は「社会にとっての災厄」としてセンセーショナルに報じられ、その責任は本人と親にある、という見方がなされたという。センセーショナルな報道の嚆矢は、言うまでもなく「パラサイト・シングル」論である。
 これらの国でアコーディオン・ファミリーが増えている原因は何か。著者は、まず先進国を覆う経済のグローバル化と、それによる失業率の増加、賃金の減少に加え、そうした事態から国民を守るセーフティネットが脆弱であることも指摘している。実際、同じ先進国でも、若者の自立を支える福祉制度が充実している北欧諸国では、アコーディオン・ファミリー増加の兆候はみられないという。
 このように、実家暮らしの増加はいまや世界規模の現象であり、もはや「甘え」や「怠け」といった心性の問題では語れないことがわかる。日本が急に北欧並みの福祉国家になることが現実的でない以上、本書のタイトルにあるように「戦略」と割り切って、イタリア人のように親子の生活を楽しんでしまうのが、当面の生き残り策としては一番いいのではないか。そして、そのモデルは、ちゃんと日本にもある。

『沢村さん家のこんな毎日 平均年齢60歳』(益田ミリ、文藝春秋)
 70歳の父・四朗と69歳の母・典江、そして40歳の娘・ヒトミの3人で暮らす沢村家の日常を描いたコミックシリーズの一作目。3人でテレビを観たり、お土産の和菓子を食べたり、他愛のない話をしたりして、穏やかな日々が過ぎていく。
 この本の帯のコピー「実家暮らしもいいもんだ。」が象徴する通り、本作の根底にあるのは、徹底した「今のこの暮らし」の肯定だろう。沢村家でも、典江がヒトミの年齢や、独身であることをいじるくらいのことはあるが、それらも、またヒトミが実家にいることも、ネガティブな描かれ方はしていない。パラサイト・シングル? 子ども部屋おばさん? それが何か? と、笑顔でかわす余裕を感じる。もちろん、そこに多少のやせ我慢が含まれていることも、わかったうえで。
 そうはいっても、ヒトミのように心穏やかに実家にいられる人ばかりではないだろう。自立していない自分への苛立ち、情けなさ、何となく世間に顔向けできない感じ。そういうものにさいなまれている人にすすめたい本を次に紹介して、本稿を閉じたい。

『コンプレックス文化論』(武田砂鉄、文藝春秋)
 「コンプレックスが文化を形成してきた」という仮説に基づき、多くの人が抱える天然パーマ、下戸、一重、背が低い、薄毛といったコンプレックスについて「しつこく考察していく」本。前述の錚々たる(?)コンプレックスと並んで「実家暮らし」も取り上げられている。
 著者は「『表現活動をおこなうものはなぜか実家暮らしじゃダメとされる雰囲気』について突き詰めて考えていくことにする」と宣言し、孤独や家出がそれだけで「画になる」ことを指摘したうえで、こう問いかける。

「人は、お母さんに服を買ってもらってるヤツの音楽を聞きたがらない。毎日のように先にお風呂に入っちゃいなさいと言われているヤツの小説を読みたがらない。理に適っているけれど理不尽。この理不尽は、多様性を希求する社会の潮流に逆行している。退行している。(略)実家暮らしをよき土壌として肯定する働きかけはないものか」

 そして、実家に住みながら創作活動を続ける現代美術家・施井泰平へのインタビューや、「実家暮らし感を出さない実家暮らしドラマ」と著者が評するNHK連続テレビ小説「あまちゃん」など、実家暮らし=甘え=コンプレックスの図式に回収されない事例を紹介していく。
 実家暮らしを肯定するだけでなく、積極的にカルチャーと結びつける態度は、長い受難の時代を経ての「揺り戻し」といえるかもしれない。実家暮らしというだけで「ダメな土壌」と決めつけ、鼻で笑うような時代は、過去になりつつあるのか、それとも。
(了)

■「字マンガ」その10(作:しば太)
1つの文字からインスピレーションを得たサイレント漫画「字マンガ」です。今回の文字は「明」。

【ミョウ・メイ あ(かす)・あか(るい)・あき(らか)】
光が当たって明るい、秘密を明かす、夜を明かす、明星。

※「シップ」10 PDF版はこちらから

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