感染症平癒祈願には、コッホ・北里神社にお詣りに行くのがいいのかもしれない
感染症の権威といえば、ドイツのロベルト・コッホと、日本の北里柴三郎であることには、間違い無いかと思います。
今でも両者の名前がついた研究所がスゴイ
このところの新型コロナ関連でも、両者の名前がついた研究所が活躍しています。
ドイツでは、なぜパンデミックに対する備えが比較的整っていたのか。それは、ドイツ連邦政府とウイルス学者たちが、未知のコロナウイルスにより多数の死者が出る事態を8年前にすでに想定していたからだ。彼らは、最悪のシナリオがもたらす被害の想定を文書として公表し、地方自治体や医療界に準備を整えるよう要請していた。
この文書は、ドイツ政府の国立感染症研究機関であるロベルト・コッホ研究所(RKI)や、連邦防災局などが2012年12月10日に作成し、翌年1月3日に連邦議会に提出したもの。「2012年防災計画のためのリスク分析報告書」という題名が付けられている。
この報告書が実に今の状況を予見したかのようだと話題なのだけど、これはロベルト・コッホ研究所、通称RKIが出したものでした。
私のnoteでは、この研究結果が話題です。
ここで取り上げた研究が北里大学大村智記念研究所でした。
コッホ、北里とノーベル賞
ロベルト・コッホといえば、1905年ノーベル生理学・医学賞受賞者です。
受賞理由は結核の研究ですが、その前には炭疽菌を分離し、細菌が病原体であることを証明した研究者です。コレラ菌も発見しています。
感染症の基本と言えるコッホの4原則でも知られます。
コッホの4原則
・ある一定の病気には、一定の微生物が見出されること。
・その微生物を分離できること。
・分離した微生物を、感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こさせうること。
・そしてその病巣部から、同じ微生物が分離されること。
そして、その弟子には、数々の病気の研究者を輩出しており、その一人が北里柴三郎です。その北里は第1回ノーベル生理学・医学賞を取り損ねています。
1890年(明治23年)には血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表した。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に柴三郎の名前が挙がったが、結果は抗毒素という研究内容を主導していた柴三郎でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞した。
ベーリングもコッホの弟子です。この受賞には色々逸話があるのですが、それが割愛しておきます。
北里自身は、破傷風の研究やペスト菌の発見など、当時の感染症研究をリードした一人であるという自負もあって、いずれ取るつもりだったと言われます。
そして、2015年の大村智さんのノーベル生理学・医学賞の受賞を殊の外喜んだだろうと思われます。
北里柴三郎と日本の感染症研究
北里が日本に戻ってきたときは、母校東大医学部といさかいがあって、復帰できず、それを知った福沢諭吉が、援助してできたのが、私立伝染病研究所でした。その後、国立伝染病研究所になり、さらに東大医科学研究所となっています。この経緯で、北里は国と対立し私費を投じて作ったのが北里研究所(今の北里大学)です。
さらに、福澤諭吉の恩義に報いるために慶應義塾大学医学部を創設し、初代医学部長、附属病院長になります。そこから、赤痢菌を発見した志賀潔が出るなど、慶應義塾大学医学部は感染症研究に力を入れます。
なのに、今はそんなことも忘れたかのようで、困ったものです。
色々ありましたが、慶應病院の発表は注目すべきものでした。
何にしても、日本の感染症(当時は伝染病)研究は、北里柴三郎がリードし定着させ、広げてきたものだといえます。
コッホの来日と北里のもてなし
北里は、コッホを日本に呼んでもてなしています。
1908年(明治41年)6月、北里の恩師コッホが来日した。世界的な大学者を迎える日本は、国賓並みの歓待と、多くの歓迎行事でこれに応えた。諸学会連合の歓迎会は上野の音楽学校大講堂で開かれた。また歌舞伎座では官民合同の観劇会が催され、通訳を森鴎外が務めた。
登場人物が豪華です。通訳が森鴎外ですか! まあドイツ語には通じていますよね。
コッホは日本に滞在した73日間に、日光、奈良、京都、瀬戸内海を遊歴したが、行く先々で学界はもとより、一般国民からも大変な歓待を受けた。
北里の弟子の志賀潔も一緒でした。
コッホの旅行には、北里以外に、伝染病研究所の研究員も同行したが、赤痢菌の発見で名を成した志賀潔もその一人であった。日光への旅行は、あいにく梅雨時で、ホテル内に降り込められるまま、コッホは志賀に、北里が破傷風菌の純粋培養に成功したときのことを語った。
日本の感染症研究が、コッホをはじめとする正当なものに思えます。
そして、その二人が祀られている神社があります。
コッホ・北里神社
2010年、コッホ没後100年が祝われた時の記事です。
今年は世界的な細菌学者であり、学校法人北里研究所の創立者・北里柴三郎の恩師であるコッホ博士没後100年の節目の年にあたる。学校法人北里研究所では、コッホ博士の命日にあたる5月27日に白金キャンパスにある「コッホ・北里神社」にて献花式を実施した。また、ドイツの「ローベルト・コッホ研究所」においても記念セレモニーが開催された。
記念セレモニーはいいんですが、神社?となりますよね。
「コッホ・北里神社」は、コッホ祠と北里祠が合祀されて誕生した。
コッホ祠は、1910年、コッホ博士の訃報に深く悲しむ北里柴三郎により建てられた。北里柴三郎は、その祠にコッホ博士の遺髪を祀り、彼の恩を偲んだ。北里祠は、1931年に北里柴三郎が逝去した際、彼の門下生らが北里柴三郎の御霊を祀ろうとコッホ祠の傍らに設けたものである。
現在、2つの祠は合祀され、「コッホ・北里神社」と呼ばれ祀られている。白金キャンパスの正門脇に鎮座し、誰でも自由に参拝可能。
病原菌だ感染症だといっている人たちが、御霊を弔うとして廟をたて、合祀され、神社になっているというのが、なんとも日本的です。
RKIはどう思っているんでしょうね。
次のお札は北里だからお金も北里へ
次のお札にも決まっている北里柴三郎ですが、今回の新型コロナウイルス感染症のことを考える時、彼の業績から今に続いているのだなと思います。
だから、寄付もここにするといいかもしれません。
そして、今は難しいですが、一度神社にお詣りに行きたいと思いました。
サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。