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「出雲」は気になることが多い

昨日、妻と一緒に国立博物館で始まったばかりの「出雲と大和」展を観に行きました。思ったよりも混んでなかったのは、まだあまり知られていないからでしょうか。それとも銅鐸とか銅矛では展示が地味になるからでしょうか。

令和2年(2020)は、我が国最古の正史『日本書紀』が編纂された養老4年(720)から1300年という記念すべき年です。その冒頭に記された国譲神話によると、出雲大社に鎮座するオオクニヌシは「幽」、すなわち人間の能力を超えた世界、いわば神々や祭祀の世界を司るとされています。一方で、天皇は大和の地において「顕」、すなわち目に見える現実世界、政治の世界を司るとされています。つまり、古代において出雲と大和はそれぞれ「幽」と「顕」を象徴する場所として、重要な役割を担っていたのです。

出雲と私の出会い

出雲大社には、6年ほど前の遷宮の年に行っています。

そのとき、隣にある博物館で見たものが今回数多く来ていました。

展示の最初「巨大本殿 出雲大社」コーナーにあったのは、この出雲大社境内遺跡出土の宇豆柱ですし。

古代の出雲大社の模型もありました。

10世紀に、「雲太」ともよばれる高さ16丈(約48m)という日本一高大な本殿があったという学説に基づく縮尺1/10の模型です。

言い伝えが目の前に現れた

雲太というのは、雲太、和二、京三 (うんた・わに・きょうさん)と言われ、奈良の東大寺大仏殿や京都の大極殿よりも、出雲大社が大きかったことを示す口伝と言われます。(例えば、ここ参照)

この言われの元になったのが、代々宮司を務める千家家に伝わる金輪御造営差図という建築図面のようなもので、今回模本が来ていました。

この金輪造営差図を世に知らしめたのが、本居宣長だそうです。

中古の出雲大社本殿は、平安時代末頃の平面図が残る。3本柱を金(カネ)の輪で縛るので「金輪造営図」と呼ばれるこの図を最初に紹介したのが宣長だ。 『玉勝間』巻13「同社(出雲大社)金輪の造営の図」に「出雲大社、神殿の高さ、上古のは三十二丈あり。中古には十六丈あり。今の世のは八丈也。古の時の図を、金輪(カナワ)の造営の図といひて、今も国造の家に伝へもたり、其図、左にしるすが如し。此図、千家国造の家なるを、写し取れり。心得ぬことのみ多かれど、皆ただ本のまゝ也、今世の御殿も、大かたの御構は、此図のごとくなりとぞ」と書かれている。

しかし、あまりにも巨大な建物になるし、江戸時代でも出雲大社はすでに数度の改築を経ていて、そのような大きな建物ではなかったので、宣長が「玉勝間」に掲載した後も、信じられていませんでした。

ところが、2000年に、その柱が発掘されるわけです。

出雲大社境内拝殿と八足門の間の、地下0.5~1.5mから平安時代末と考えられる巨大な本殿跡の一部が確認された。発見されたのは、推定幅約6mの細長い柱穴一箇所(1号柱穴)、同4m以上の柱穴一箇所(2号柱穴)で、1号柱穴には柱材(長径1.35m)三本を一本に束ねた、直径約3mの柱(1号柱)の根本部分が遺存していて、これは平面図と同じである。三本柱を束ねた直径1丈(3m)のものであることから、平面図の信憑瀬が高まり、高さ16丈説が有力となった。

これが今回来ていた展示になるわけです。

出雲とトロイアの共通点?

この発掘で出てきた柱の話は、古代の出雲権力の大きさを証明するような話で、古事記や日本書紀、出雲風土記といった古文書が一気に現実味を帯びてきます。研究者の注目も集めています。

この辺りの話は、シュリーマンとトロイア遺跡の話を彷彿とさせます。

でも、シュリーマン自体には、色々問題があって、嘘も多いそうです。それと意外にも日本にもきたことがあるようです。

古代の神話や言い伝えが、どの程度、事実を含めているのかは、結局、発掘による事物との照合でしかわからない部分が多く、それが考古学の難しいところなんだと思います。

古墳研究の難しさ

今回の展示で、出雲と呼応する存在として大和(ヤマト)が取り上げられています。ヤマトの研究が難しいのは、古墳時代の研究になるからで、発掘の難易度が上がります。古墳を壊さずに中を調べるのはなかなか難しい。

傷つけずに発掘する技術として、最新の物理学を応用したものが出てきて、今回の展示でも、ミューオンラジオグラフィ(名古屋大学サイト)が取り上げられていました。

宇宙線ラジオグラフィは、宇宙線中に含まれX線よりも格段に高い透過力を持つ素粒子“ミューオン(ミュオン、ミュー粒子、muon)”を用いる事でX線では見る事が出来ない火山やピラミッド、原子炉などの“厚い”対象物の内部を非破壊でイメージングする技術です。

この技術を使って、調査中の古墳のことが展示中に映像で流れていました。

邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)の墓との説がある奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳=3世紀、全長約280メートル=について、橿原考古学研究所と名古屋大学の研究チームは9日、物質を透過する「ミューオン」と呼ばれる素粒子を利用し、内部の構造を解明するための科学調査を実施したと発表した。調査結果は2020年度に公表する予定。

なぜ、古墳をこうした非破壊検査で調べるかというと、宮内庁が許してくれないからです。ここに、ヤマト時代の研究が進まない理由の一端があります。

箸墓古墳は宮内庁が管理しており、発掘調査はできない。橿考研が12年に実施した3次元航空レーザー計測で、後円部の最上段に直径約39メートル、高さ約4.7メートルの特殊な円丘があることが分かっている。

シュリーマンのように金にあかせて調べるというわけにもいかないわけですね。

こうした非破壊検査は、X線検査などが有名ですが、仏像の中に隠されたお経があったとか、いろいろな調査に使われています。

出雲とヤマト、そして日本

弥生時代から古墳時代には、出雲の方が大和よりも栄えていて、海を利用すれば、より大陸に近いためか先端技術もあり、古墳の作り方も違い、土器の形も違いました。しかも、日本海側の諸国とのネットワークもあり、新潟くらいまでは、出雲の影響が見られるそうです。

それが、どこかのタイミングで、ヤマト王権に仕えるようになり、出雲大社とヤマトの関係は大和を守る出雲というものに変わります。この辺りの経緯が、国譲り神話になって残っているのでしょう。

鎌倉時代には東大寺大仏殿の再建があったことが有名ですが(ただ、今の東大寺は江戸期のものです)、出雲大社も遷宮があったことが記録されています。ヤマトに端を発する朝廷よりも幕府に力が移り、庇護をするのも朝廷よりも幕府や武士になっているわけですね。

その後も、地域の大名や豊臣秀頼による寄進などで何度も建て替えられ、今の本殿は江戸時代のものです(出雲大社)。

また、多くの寺社同様、応仁の乱から戦国時代には出雲大社も荒廃する(長く拝殿がなかったり)のですが、江戸期になって、徳川幕府による保護もあり栄えます。こうした財源は、幕府や朝廷からの寄付もありましたが、富くじの開催や全国からの参拝客による寄進なども大きいものだったことがわかっています。(この辺はブラタモリで見ました)

そして、平成20年から始まった現代の遷宮で、また人気が再燃しており、私が行った時も、縁結びを求める人たちで大変な賑わいでした。

日本書紀より古事記が良いかな

それにしても、出雲の物語、そして出雲大社は、心を掻き立てるものがあります。それは、国譲り神話をはじめ謎が多いことと、出雲大社が想像を遥かに超えた大きさだったことが証明されたことにあるのではないでしょうか。

そういう気持ちで読むなら、日本書紀よりも古事記かなあ。

私のお勧めは、古事記の中でも、昔ブログでも紹介した、この本です。

現代文にしたものをストーリとして漫画にするのではなく、原文がそのまま描かれていく絵解きであり、さらに原文である【古事記】が巻頭に手書きされているのですが、それを見て絵を見ると、文字が絵に見えてくるのです。

3冊まとめて読んでいただきたいです。

あとは、先日店頭で見かけて気になっているのがこの本。

三浦佑之さんといえば、大ベストセラー『口語訳 古事記』の著者にして現代古事記研究を牽引する人です。お嬢さんの三浦しをんさん曰く「コジオタ(古事記オタク)」。その三浦さんの主張の核心こそ「『記紀』の呪縛からの解放」です。簡単にいえば「多くの人は『古事記』と『日本書紀』を似たようなものと考えがちだが、それは大きなまちがい。ふたつの書物はまったく別の意図をもって編纂されたと考えるべきで、その証拠が出雲神話とよばれるものである」ということ。

古事記と日本書紀が連続したものではないという捉え方が新鮮です。

そのヒントは出雲国風土記にあるらしいのですが、気になります。

このサイトも運営されているので、よく読んでみます。

古事記そして、出雲は、しばらく自分のテーマになりそうです。




サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。