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「嫌われる勇気」を読んで考えたこと

年末年始にかけて読んでいた「嫌われる勇気」を読み終えました。

言うまでもないベストセラーで、2013年の年末に出版されたのに、昨年も売れた本のベスト5に入っているくらいです。でもなんとなく読むのが躊躇われて、先に、同じ岸見先生の本ですが、こちらの本を読んでいました。

この本も素晴らしい本で、岸見節が心地よいです。

「嫌われる勇気」ももっと早く読んでおけば良かったと、今は思っています。でも、なぜ私は躊躇ったのか。

それは、大学の専攻が心理学だったからです。

私が大学に入ったのは40年前(驚いちゃうね)で、フロイトを勉強したくて心理学科に入ったんですね。ところが、日本ではフロイトは精神医学で医学部で習うもの、心理学科はユングを習うもの、と決められていて(少なくても当時の筑波大学では)、フロイト研究の大家で犯罪心理学で著名な小田晋先生が在籍している(医学系でしたが)のに、一般教養の心理学でしか授業をとることができないと言う現実に絶望し、心理学の授業で心理学を勉強することを諦め、フロイトについては図書館で学ぶ(つまり自習)ことにしました。という言い訳でサークル活動とバイトに勤しむ学生生活を過ごしたわけです。

アマゾンでの本書の紹介には以下のように書いてあります。

世界的にはフロイト、ユングと並ぶ心理学界の三大巨匠とされながら、日本国内では無名に近い存在のアルフレッド・アドラー。
「トラウマ」の存在を否定したうえで、「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と断言し、対人関係を改善していくための具体的な方策を提示していくアドラー心理学は、現代の日本にこそ必要な思想だと思われます。

私が大学にいた頃、心理学と言うか精神医学とはフロイトかユングかであって、アドラーなんて名前も聞いたことがなかったわけで、それが三大学者みたいなことで急に出てこられても、三大稲荷とか三大薬師とかの3つ目は大概聞いたことがない、みたいな感じになるわけです。

しかも、フロイトの原因論を否定し、「すべての悩みは対人関係の悩みである」だなんて、心理学出身者としては受け入れがたい話でした。

なぜアドラーは、そのような考え方をしたのか。

そうした本への答えは、この本を読むか、こうしたサイトを読んでいただきたいと思います。私がいうまでもないことだからです。

今は読んで良かった、アドラーなるほど、とか思ってます。

で、ここで書きたいのは、この本の成功の理由です。それは、やはり作者の力と構成の勝利なのでしょう。

哲学の研究者である岸見一郎という方がアドラー心理学に出会い、アドラーをフロイトやユングと同一の学者ではなく、哲学者の系譜のもとにおいて位置づけ直したこと。それがアドラーの語る言説の理解にとって有益だったのではないかと思います。人間とはどういうものか、なぜこうなったのかというような「原因」を探すフロイトやユングとは異なり、人間のあり様やあるべき姿を説くアドラーの理論は、心理学というよりも哲学に属するものだと言われた方が納得しやすいからです。

そして、岸見先生がアリストテレスの言葉をプラトンが書き留めた「対話編」になぞらえて、私はアドラーにとってのプラトンになりたいと言い、それを聞いた古賀さんが、岸見先生のプラトンになりますと言った、と書いてあるあとがきを読んで、この本がなぜこういう構成になっているのかに合点がいきました。

この本は、アドラーにおける対話編なわけです。

そして、青年は、古賀さんであり、若き日の岸見先生であり、読者である。それが、読者のモヤモヤを晴らしながら読み進めていく力になったのだろうことは想像に難くないですね。

私も、作中の青年ほどではないですが、戸惑い、憤慨し、違和感を感じ、それでも読み進められたのは、この本が対話編だったからです。これが哲学書や解説書の様な文体だったらば、「何言ってるんだ」と途中で放り投げてしまったかもしれません。岸見先生の文体は、対話編にしなくても読みやすく読者に対して丁寧に向き合っているのは、「老いる勇気」で知っていますが、それでも「嫌われる勇気」に書いてあることは過激な刺激でした。特にフロイトを信奉するものとしては。

この本が多くの人に受け入れられた理由は、承認欲求の強い時代に違和感を感じている人が多く、また、すべての人が特別であらねばならない様な時代の雰囲気から取り残されている様に感じる人が多いからではないでしょうか。過去と未来に囚われた現在を暮らす苦しみに悩む人が多いということでしょう。

今の時代の息苦しさについては、この記事でも書きました。

特別でありたい、というよりも、あらねばならないというプレッシャーにさらされて生きている様な時代だからこそ、そこから解放される言葉を提示してくれる「嫌われる勇気」が受け入れられたのではないか。

それが、私の疑問への答えでした。

でも、これだけ売れると、誤読している人、曲解している人が多い本であることも事実です。

「嫌われる」とは「なにから」なのか。そこを理解しないといけませんね。「誰かから嫌われろ」と言っているわけではないので。「嫌われる」というのも、嫌われることを恐れて他人の評価を優先する様な人生を生きてはいけない、ということなわけで、「勇気」も、「勇気を奮って生きる」のではなく、一歩前に踏み出す「勇気」を持つことなのです。言葉の持つ意味が、今までの理解に基づかない、ストレートに入ってこないというのも、この本の難しいところではないでしょうか。

では、私は、明日からアドラー流で生きていけるかというと、ちょっと違うかなあ、というのも事実です。フロイト的原因論から逃れらない自分がいますからね。

あるがままの自分を認めるには、現在あるのは過去の自分すべての総合であって、未来の自分は、今日この自分のあり様の先にあることも認識しないといけないのではないかと思います。ただ、未来は一瞬一瞬で変わるパラレルワールドの総合体でもあると信じてます。どの未来が現れるかは、常に選択されているわけです。どの未来を選択するのか、それが現在を生きる意味です。願った未来は選べないけれども、結果的に選んだ未来に向かっているというのがアドラー流ではないところかな。

それにしても、やはり素晴らしい本であったことは確かです。ベストセラーだからと嫌う(私にもそういうところがあります)のではなく、一度読んでみることをお勧めします。







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