マンションと「人生の半分」

2015年に週刊漫画誌のコラムコーナーに求められて書いたものです。このあたりから「空間」と「記憶」が、自分の中でなにかを探る時の手がかりになってきてますね。こういう原稿も書くの好きなんですよ。依頼はないけど(あれば喜びます)。

(本文)
 横浜市にあるマンションが傾斜しているというニュースが報じられた。全4棟705戸というから1000人以上が暮らしているのではないか。立地からして子育て世代も多いだろう。昨年11月、そのうちの1棟で手すりの部分がずれていることが発見された。住民の要望で調査が行われると、マンションを支える杭の一部が固い地盤に届いていないという事実が発覚。杭のデータは改ざんされていたことが明らかになった。
 どうしてこうなったのか、これからどうなるのか、気になることは多い。マンションを販売した企業は4棟全棟を建て替える方針という。僕はそのことが妙に心に残った。
 もちろん安全性に不安があるマンションに住み続けるわけにはいかないから、企業の提案は極めて妥当だ。とはいえ、スニーカーだって、自動車だって使い慣れれば愛着が沸く。まして「人生最大の買い物」である家なのだ。「不具合がありました。はい、新品」とはならない、新品になってしまったことで、かえって失われてしまうものもあるはずだ。
 僕は18歳で家を出てから転勤や転職で11回も引っ越しをしている。だからなのか、23区のはずれに居を構えて10年経っても、なんだか仮住まいのような気分が抜けない。今は父が一人で暮らしている実家に帰っても、もはや「自分の家」という感慨は薄い。
 それでもその“父の家”を「自分の家」と思える瞬間が時折訪れる。きっかけの一つは、リビングの扉の脇に刻まれた背比べのあとだ。背の高さに引かれた横線と父の几帳面な文字で書かれた日付。それを目にすると「ああ、ここは家なんだ」という思いが溢れてくる。
 「いくら長生きしても、最初の二十年こそ人生の一番長い半分だ」というのはイギリスの詩人の言葉だそうだ。とするなら、その「長い半分」の思い出が刻まれている場所こそがその人にとっての「家」なのではないか。僕にとっては“仮住まい”気分が抜けない自宅も、2人の子供にとってはそれぞれの記憶が刻まれた「狭いながらも楽しい我が家」なのではないか……と思いたい。
 件のマンションが完成したのは2007年。入居してからの8年間を長いと思うか、短いと思うかは人それぞれだろう。だが、さきほどの言葉にならえば、8年とは「人生の長い半分」の半分弱だ。新生児は一人で登校できるようになり、中学生は成人する。それだけの時間だ。あのマンションはそんな記憶が刻まれることで、子供たちの「家」になっていったはずなのだ。でも、そんな記憶は古い家とともに壊されてしまうかもしれない……。
 嘆いてもしょうがない。でも、家というのは単なる住空間、単なる財産ではないのだ。家は子供の記憶と深く結びついて家になる。、だからそこには「替え」などない。ニュースを見るたびに、このことをはいろんな人に忘れてほしくないと思うのだった。特に住宅関係にお勤めの方には。

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