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ピークを超えた市場、浮かび上がる「問題」──60年続けた本業を撤退した話(3)

時代に先駆けた投資と発想力で、参考書業界の発展とともに、事業を拡大させた藤沢製本。しかし出版市場がピークを迎えると、徐々に苦しい時代が訪れるようになります。

それは私たちのみならず、製本業界全体が追い込まれていく歴史でもありました。藤沢製本の歴史を記す連載・第3回は、そんな1990年代〜2000年代に起きた変化を、自らの反省を含みながら振り返ります。

【前回の記事】



競争の激化と、高まり続ける品質要求

拡大を続けてきた出版業界ですが、1990年代に入ると市場が成熟し、それまでのような成長が難しくなっていきます。バブルの崩壊から遅れること数年、書籍出版物の販売金額がついにピークに到達しました。1996年を境目に、ゆるやかな下降線を描きはじめたのです。

藤沢製本が軸足を置いていた学生向け参考書は、景気動向の左右を受けにくい分野ではありましたが、少子化の進行でやはり市場は成熟化。出版社同士、読者をどう獲得するか厳しい戦いがはじまります。

その中で、製本そのものにも、より厳しい品質が求められるようになりました。もちろん前回書いたように、藤沢製本は積極的な設備投資をしていたこともあって、どの時代でも一線級の品質であったと思っています。ただ、それを上回るようなオーダーを受けることも増えてきました。

たとえば、本の強度。簡単には壊れないように製本していても、長時間読み込めば読み込むほど、どうしてもバラけやすくなります。その宿命を少しでも避けるためには、表紙のついた背中に今以上に糊を入れるしかない。すると製本機の回転スピードがどんどん落ちてきます。

「少し過剰な気もするけれど……でも、お客さまのためだから何とかしよう」そんな思いで、当時から少しずつ、こうした要求に応えてきたのだと思います。もちろん機械が動くスピードが落ちたぶん、生産効率は下がり、利益も出づらくなっていきました。

ただこれは何も、特定の出版社の意思や、藤沢製本の対応だけの問題ではなかったと捉えています。業界全体に、そうした方向へ向かわざるを得ない力が働いていました。そこには日本全体が、ある種の“過剰品質社会”に向け突き進んでいったことも関係があるでしょう。

出版・製本の分野に限らないこのスパイラルは、今なお解決の糸口が見えづらく、多くの方を苦しめているのではと思います。


下請け業としての「製本業界」の苦境

出版物市場が縮小傾向を始めたことは、そうした製本効率の低下以外にも、大きな影響を及ぼしました。特に2000年代以降、製本業界全体が個々の生き残りをかけ「価格競争」に踏み込んでいったことで、より利益の出づらい構造に陥ってしまったのです。

例えば5000部を想定していた製本単価のまま、3000部、2000部の生産でも受注したり、資材はじめさまざまなものが高騰しても、値上げを一切交渉しなかったり。他社がそうやってない状況で、もちろん藤沢製本にも見直しを行う発想はありませんでした。

もともと製本業界が、印刷所の半ば“下請け”的な立場で成立してきた側面も、そうした状況を加速させる原因にあったと思います。藤沢製本は新たに台頭してきた出版社と直接取引をしてきたので、印刷所からの仕事は少なかったのですが、多くの製本所は印刷会社から仕事を請けて成り立ってきました。固定化された「発注者/受注者」という関係は、どうしても構造上、「強い立場/弱い立場」に置かれやすくなる。こと製本業界においては、本作りの最終工程であるがゆえに、それがわかりやすく「最後に無理をきく」形で表出することも少なくありませんでした。

具体的には、トラブルが起きたときの対応です。手前の工程が遅れたり、紙や印刷に問題があったり、情報連携に抜けがあったりしたときに、製本屋が何とか対応せざるを得ない場面は、実際しばしば生じるわけです。(もちろん、製本屋がミスをすることもあります。人が作業する以上、あらゆる工程で問題は起き得るという認識はあり、それをお互い支え合いながら、ミスを減らしていく努力をすることが大事だと考えています)

問題は、最終工程であるがゆえに抱え続けるリスクが、業界の中で長く見過ごされてきたこと。時間的、金銭的負担の多くを、製本屋が実質的には無償で被っていく商習慣にしてしまっていたことにありました。

まだ出版社と製本屋がフラットに近い関係を結べていた時代には、仮に問題が起きた場合もコミュニケーションを取りながら乗り越えてきたのだと思います。しかし、どちらの業界も苦しくなると、その負担の背負い方はどうしても偏っていくのではないでしょうか。

当時はまだ、私たちも含め誰もが「製本屋が無理を聞くものだ」と思っていました。そうした根深い問題が徐々に、けれど確実に経営状態に響くようになってきたのが、振り返るとこの時代だったように思います。


藤沢製本としての「コミュニケーション」への反省

ここまでの書き方だと、もしかしたら一方的に出版社を責めるような印象を抱かれるかもしれません。ですが私たちは、藤沢製本を含む製本業界そのものの姿勢にも、もちろん原因があったと考えています。

たとえば、先ほどの生産リスクの話。本来はそうした側面を踏まえた単価設定が必要であることを、こちらから相談するべきだったはずです。しかしそれをせず、「言われたことを言われた単価でやる」という、従来の関わり方に徹してしまった。

あるいは細かな配送費や荷物の保管料についても、「そのくらいサービスしますよ」と言って、自ら価値を下げにいってしまっていた。これは、その時の担当者(経営者)同士には“持ちつ持たれつ”の感覚が、きちんとあったかもしれません。ただ時代を経ると、どうしてもその意識は薄らぎ、お互いに疑問を持たない慣習となってしまいます。

また藤沢製本についていえば、その強みだった発想力について、やはり無償提供をベースにしてしまっていました。たくさんの提案をしたり、多種多様な相談を受けたりしながら、それに関わる研究費や開発費、必要な設備投資(1000万単位のケースも少なくありません)をすべて自社だけで被っていたのです。もちろん自ら進んで行ったことですし、それによって得た信頼もありましたが、結果として「アイデアも財産である」という発想を業界で誰も持たない状態にしたことは、事業の持続可能性を下げてしまう1つの要因になったと捉えています。

出版業界がピークを迎え、その創業者や、黎明期を支えた社員の方々からの世代交代が進むなか、「自分たちがしていることの価値」を言語化して、出版社に伝え直すことができなかった点も、製本屋として反省すべき点だと思います。本作りのバトンを新たに受け取った方は、過去の経緯もわからずたくさんの不安があったはずですが、そこに十分寄り添うことができなかった。

振り返ると、昔は出版社の新入社員の方が製本屋を研修で訪れ、工場で何が起きているのか、細かなこだわり1つを実現するのにどのくらいの労力や時間がかかるのかを、その目で見てくださっていました。しかし、最近はそんな事例も消えてしまい、私たちも「見に来てください」と声をかけることをしていなかったのです。結果として、「ここまでやって当たり前」「ここまでやってもらって当たり前」という、細かな機微が取り除かれた受発注情報だけが残っていくことになりました。

藤沢製本の滋賀・本社工場の外観

もともと藤沢製本は、出版社の少ない関西圏にあって、書籍に特化した大規模製本ラインを持つ、少し特殊な位置にいたのだと思います。積極的に外に発信することもつい最近までしておらず、取引先数としては多くない、ある意味で“謎”なポジションを貫いていました。だからこそ生まれたお付き合いもたくさんあったのですが、その姿勢を時代が変わっても続けてきたことが、コミュニケーション不足、不均衡な商習慣へとつながっていたのです。

2010年代、いよいよ「多品種小ロット」化が進む時代に入ると、そのことが藤沢製本をどんどんと追い込んでいきました。

(第4回に続きます)


<記事一覧>

【公開予定】
2023/12/25 第1回第2回
2023/12/26 第3回(この記事です)
2023/12/27 第4回
2023/12/28 第5回
2023/12/29 最終回

株式会社藤沢製本
1963年京都にて創業。学生参考書や学術書など一般書籍の製本請負を主力とし成長。2019年に滋賀工場に本店移転し、出版印刷業界の枠を越えて新規事業に取り組む。

(文責:藤澤佳織、構成:佐々木将史