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【モノなし生活45〜52日目】ご自愛ください、なぜなら特別な存在だからです


所持品0でスタートして100日間1つずつアイテムを取り出す生活をしています。

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【45日目】パジャマ

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44日目までのレポートはこう終わっている。「最近感じるのは、自分が思っていた以上に服に執着がない。果たして。」全然服を取り出していない、どうなんだろ、となっていてそのあとすぐに欲しいと思ったのはパジャマだった。

2020年だから、というのは大いにある。人と会わないから、外に着ていくおしゃれ着よりも心地いいパジャマのほうが大切になったのは必然かもしれない。折り返しが近づいてきてもまだ服のバリエーションがほぼ1パターンしかないけど、だからってこれで自分は服が好きではなかったんだな、と結論づけてしまうのはもったいない。でもそういうのを差し引いても、自分は服の中でパジャマがかなり好きだと思う。下着1枚ぶんでも軽くしたいと思っている旅の荷物に、それでもパジャマだけは入れたりする。旅館の浴衣も、ビジネスホテルの長すぎるシャツみたいなパジャマもわたしにとっては寝づらい。スカスカするし、はだけてよじれてわけがわからなくなる。

こうしているいま頭の中に去来したのは中学一年生の時の宿泊訓練の思い出だ。本来は体操着を着て眠ることになっていたがある不安があって、連絡ノートを通じて担任の先生に「ズボンのゴムが気になって眠れないかもしれない」と伝えたのだった。連絡ノートはクラス全員がその日の感想などを書いて提出し、担任が赤ペンでコメントを書いて帰りに本人に戻す。それまでは好きな小説や映画の話で長文の返事をもらえていたのに、ズボンのゴムの件に関しては「う〜ん、どうだろね」とだけ書かれていた。仕方ないと思う。山あいの合宿場に3泊する宿泊訓練の当日はやっぱり寝苦しくて、友人から藤チャンあんた寝言ゆっとったで、と言われた。「金魚の名前やったらぎょぴちゃんでええやん」と言っていたらしい。神戸に住んでいた。先生の好きな映画は『GO』だった。

パジャマが手に入って嬉しい。本当に本当に豊かな気持ちがする。今年は特に、自分のペースや心地よさを死守する、ということの必要性を感じる。

(パジャマ:pamm「ゆったりした朝のパジャマ」)


【46日目】おたま

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この生活を始める前には8つのおたまを持っていたわたしが、46日目にしてついにたったひとつのおたまを選んだ。おたまはひとつでいい。ひとつあれば、世界がちがう。世界はおたま以前、おたま以後になる。すくう、という行為がこんなに心地いいものだとは。スープに凝っているわたし、おたまでひとすくいしたスープの色がうれしい。今日は透き通っている、油がきらめいている、やさしそうにモッタリとしている。おたまがあればスープと会話できる、というのは言い過ぎだろうか。


【47日目】スポンジ

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道具のための道具を取り出しはじめた。食器や調理器具を洗う、手入れする。スポンジは泡立たせるのが得意で、洗いやすい形で、ふわふわなのに強めのアプローチもできて、見た目もかわいくてすごく良い。スポンジに対して、「ああ、いいよ、すごくいいなあ」と思ったのは初めて。満足できる洗い上がりで、手入れするということの根本的な幸福を知る。


【48日目】お茶碗

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中国で取り皿にするようなお椀をイメージして、日本で買ったもの。炊きたてのご飯をしかるべき深さの器にいれると米もよろこぶしわたしもよろこぶ。落ち着く。

まだマグカップがないので、朝はここにカフェオレを入れて「カフェオレボウル」なつもりで飲んでいる。

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中国の取り皿というのはこんなイメージ(画像の上のほう)。春節のときの写真だからおかずが全力だ。平たい取り皿はあんまり使わない。お椀一つだと大人数で食事するとき場所をとらなくて便利なのだなあ。

塩と油だけでおいしい中国料理、番茄炒蛋。トマト卵炒め。これはこの生活の前から10日にいっぺんは作る。

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【49日目】しゃもじ

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スプーンとか、木べら(竹製調理ヘラ)も形は似ているけれど、しゃもじのかわりにはならない。しゃもじにしかできないことがある。先人が積み重ねた知恵によって計算された傾斜、くびれ。米がしゃもじに、しゃもじが米に吸い付く。運命の恋人みたいに、出会う前から呼び合っている。知らんけど。そういうしっくり感がある。


【50日目】画集

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坂口恭平『Pastel』(左右社)

記念すべき50日目なので、特別なものを、と思い。画集はそんなにたくさん持っているほうではない。でも坂口恭平さんのパステル画を見たとき、心が旅に出て、そこで勝手に休憩しているのがわかったので、この画集は自分にとって必要だと思った。とにかく光の存在感がすごい。だからこの画集の写真を撮るときも、部屋の中で自然光がいい角度で入ってくる場所を探した。画集を手に入れたというより光を手に入れた感覚。特にいいなと思った絵の解説をみたら「影にも光が当たっていることを知った」と書いてあった。巻末の『畑への道』というエッセイもよかった。はじめて風景と出会い、はじめて土と出会い、何も知らない自分がいて、これからも探求しながら観察しながら生きていきたいという話。(このわたしのまとめだと全然だめ、坂口恭平氏の文章は今読んでいる保坂和志『試行錯誤に漂う』風に言うと「意味じゃないところで激しい共振を起こさなければ文章なんて伝わらない」の最たるところなので意味でまとめたって意味がない)わかる。まさにわたしのこの生活もそうで、知っていると思いきや何も知らなかったことを知る。今日で100日間の半分が終わった。

19歳のとき恩師に言われた言葉が「携帯を捨てよ」「なんでも経験しろ」「火中の栗を拾え」だった。「なんでも経験しろ」は手応えだけが本当の知識になるからで、「火中の栗を拾え」は、先生の言ったのは大元の意味とちょっと違っていた。誰もがやったほうがいいと思いつつやれないことを進んでやれ、それをやれば注目されるし、後先考えずに始めても助けてくれる人がどんどん現れる、とのことだった。今回のシンプルライフへの挑戦が想像していたよりすこし注目してもらえているのは、これが火中の栗を拾うということだったのかなと思ったりする。誰もの意識にある、生活のこと。関係あるのかないのかわからないけど、執筆業のうれしいオファーも増えた。いくつかの、こういうところで書かせてもらえたらどんなに素敵だろう、と思っていたところから声をかけていただけた。自己PRのためにはじめた企画ではないけれど、えいやっと「飛び込む」感の強い取り組みだったからこそ、思いがけず得られるものがあったのかもしれない。あるいは、"If you build it, he will come." 、最近あるものづくりの先輩から教えていただいたフレーズも胸にずっとある。

知識として知っていることと、本当の意味で「知っている」ということは違っている。という文章を書いたのは25歳のときだったか、思い浮かべたのは19歳のときに船の上で見た、太陽が地平線に沈んでいく光景で、一生忘れないと思う。あのときはじめて、太陽が沈むということを知った。時計の長い針を息を止めて見つめるときみたいに、太陽がぐぐぐ、じりじりと動くのがわかった。これまで知らなかった(でもまだわかっていないことがある、というのは、太陽が沈んだわけではない)。この100日間の生活で、これと同じことが毎日のように起こる。わたしは包丁を知らなかった、歯ブラシを知らなかった、机を、冷蔵庫の本当の存在意味を、無の空間における音楽、読書、その砂漠に咲いた花のような尊さを初めて知った。そして砂漠の砂つぶくらい本当は有り余るほどの豊かな時間のこと。

こんなふうに書いているとすべてが万事順調、ハッピー、ぜんぶ心地よく生きている人みたいだが、実はすこし前にがつんとバランスを崩した。これは書くべきかとても迷った。まず、そうなったのはこの挑戦のせいではないし、企画に関わっている人びとを少しも心配させたくない。やりたいと言い出したのはわたしであるということももう一度書いておく。もし、ある意味でこの企画のせいだとしたら、それはこの生活によって感覚がどこか研ぎ澄まされた結果、より繊細になってしまったことがひとつの原因であるかもしれない。そうではないかもしれない。この生活をしていなかったらもっと深く落ち込んでいた可能性も高い。

100日間というのは決して短くはない期間で、その時間の中でなにひとつ揺れ動かなかったらそっちのほうがうそだ。バイオリズム。波があることのほうが健全だと感じるので、書いておいてもいいかな、と思い直す。23日目までのまとめのタイトルは「すこぶる調子がいいわたし、」というはじまりだった。調子いいぞ、というときはだいたいそのすぐあと微妙になるから気をつけた方がいいよね。いまは元気。ありがとう。

だいたい2020年はハードすぎると思う。予期しなかった世界になり、これまでのやり方が通用しない、変化にもパワーがいるし、知っている人が命を絶つであるとか、分断、価値観のぶつかり合い、途方もなさ、さまざまな要因が重なって、自分を保つのが難しい。耐えられることが強い、えらい、とかはない。これ以上、がんばらなきゃだめだとか自身を責めるのは本当におすすめしない。

なにが言いたいかというと、心の平穏を守るのがいちばん大切だった、それでつまり50日目は画集だった。こんな対策はいままでしたことがなかったけど効果はばつぐんだった。


【51日目】オリーブオイル

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塩と油、だけでできる料理を研究している。シンプルライフと相似形のチャレンジ。オリーブオイルを追加するとさらにバリエーションが広がりそうだったのでそうした。

また友人がおいしそうなレシピの存在を教えてくれたのでそれを早く試したかった。これ↓

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おんんいいしかった。パスタで食べた。早く食べたすぎて気づいたらなくなってたのでパスタの写真はありません。


【52日目】歯磨き粉

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2日目に歯ブラシをゲットして以来、歯磨き粉なしで歯を磨いていた。その方法だとミントでなんとなくスッキリしておしまい、みたいなことにならないのできらいじゃなかった。逆にちゃんと磨ける気がしていた。でもふと、これ知らないうちに着色しやすくなってたりしないかな? と思ったら急にこわくなった。え?やばくない? 50日ぶんの焦りがのしかかる。

久々の歯磨き粉はスペシャルだった。ヴェルタースオリジナル、と思った。こんな素晴らしいキャンディーを貰える私はきっと特別な存在なのだと感じました。今では私がおじいさん、孫にあげるのはもちろんヴェルタースオリジナル。なぜなら、彼もまた特別な存在だからです。歯磨き粉で歯を磨くという行為がファビュラス。自分が自分を愛してる、そうでなければこんなことしないんだから。自分が好き!と思わなくても、思う前から、そうなんだと思った。ご自愛した。

ご自愛ください。スープおいておきます。

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グリーンアスパラの塩レモンスープ( 有賀薫『スープ・レッスン』)。

続く

【モノなし生活53〜62日目】 これが究極のシンプルライフかもしれない

【毎日19:00に選んだアイテムを投稿します】→ 藤岡みなみTwitter

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