朝のことごと 2
働き蟻は、自分が食べものを採り、巣に持ち帰って、その為に、一族が糊口をしのいでいることを、分かっているのだろうか。
多分理解していないだろうことは、想像がつくのである。触れれば途端に潰れてしまうような、小さな体だからというわけではない。巣の外へ出て、仲間の出すフェロモンを感じれば、そこへ行き、また感じれば、そこへ行き、感じて、そこに行き、食べものの匂いを嗅げば、そこへ行き、それを掴む。しかし、食べものを掴んだからどうということはない。また、仲間の後を追って、追い、追いかけ、気がついたら巣にいる。巣に着けば着いたで、やるべきことがあるから、それをやる。そうして、また巣を出る。せいぜい、そのくらいのものだろう。宿命というか宿痾というか、そういうものが、べったり自分に塗りたくられていることを、知る由もないのである。
しかし、それだからと言って、やはり下等生物だと納得するには、及ばない。むしろ人の見方を裁かねばならぬ。
人は種の生存としきりに言うが、生物に亦我々に、義務とやらが課せられているものだろうか。何かのために生きる。かくなる原因で滅びた。全て人の生み出したストーリーに過ぎぬ。時空は人から発し、以て世界をそれで覆い尽くそうとする。
人も含め生物は、まるで磁石の引き合うように導かれ、あるところにくっつくと、また別の磁石に吸われるというように、常に行き当たりばったりで、明確な指向など存在しないはずだ。これがあたかも「最初」から定められた、緻密な計算に基づく一つのラインで、「今」を以て一応の完成とする、「歴史」の創出は、あくまで人の見方であり、人の営為によるものである。
事実は、磁石が磁石にくっつくという、それのみである。どこから来たのか、どこへ行くのか、問うてもさっぱり分からぬし、考えても仕方がない。追憶により時が、像を結ぶにより空間が、我々のうちに生まれ出たとしても、それが世界の実像にぴったり添った形で、形成されているのか、それを無闇に信じこんでも、世界の何を知っていることになるのか、分からんではないか。目は何を見ているのか。耳は何を聞いているのか。いや、何も見聞きしていないのかも知れぬ。
ただ生き、ただ死ぬ。結局これくらいのものであろう。もしかしたら、生きるも死ぬも ないのかも知れぬ。
我々は自然を、世界を、観察し続けていると信じたその裏で、我々自身を見続けていたようである。我々自身を観察者の地位から引きずり落としてみれば、当たり前だと思い込んだ世界は、途端に崩壊し、自然は混沌という有様を曝け出す。ここに秩序があるか。ここに一貫性があるか。全ては蠢いているだけなのである。
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