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枯尾野 I


          一
「あなたに左様ならを伝えようと思って、これを書き残しました。そして、まず言わなければならないのは、あなたに何の責めもないということです。
 理由があるのかないのか、私にも分かりません。だけれど、何をどうしようと、勝手にあなたのもとを離れるのですから、私が一番悪いのです。こうして書き置きを残すかどうか、これさえあなたの知らないところ、見えないところで、決めあぐねていました。
 秋の夕暮れの、白壁に染みいる濃紺の影のように、何も残さず立ち去ることが、我儘のうえに我儘な物言いをするより、まだ正しい振る舞いだと思えました。そうして、きちんと事情を告げることも、確かに人の成すべきことなのです。何がふさわしく、どうしたらあなたへ真摯な態度でいられるのか、私は未だに分からないでいるのです。
 私が、何も決められないさなかに、この手紙をしたためたのは、それがどうであれ、自分の心を言葉にのせて、他人に届けたいと思うのは、人の性だと感じたからです。そのことが良いか悪いか、私には到底判別がつきません。ただ、逆らっても逆らいきれない潮の流れと同様、人は言葉に溺れて、なすがまま、どこかへ押されてゆく、無力な存在なのだと、私はしみじみ感じたのです。
 これは真心ですか。言い訳ですか。もしかしたら、遺書なのかも知れません。私はいったい、何を書いているのでしょう。
 こういう文章に、決まった形があるとも思えないけれど、あなたとの思い出を連ねたり、そうでなければ事務的に済ませたり、書くべきことは、二つに一つだろうと思います。しかし、私には、もはやそういう欲もなくなってしまったので、どうしようもありません。あなたとの生活は、楽しいことも怒りを覚えることも、たくさんありました。思い返せば、楽しいこと、笑い合ったことのほうが、多かったように感じます。ですが、楽しいことがあったことは分かるのに、何がどう楽しかったのか、記憶の奥底からいざ引っ張り出そうとしても、その一片さえ掴めないのです。大方忘れてしまった、そのことにさえ、あまり悲しいとはならない自分もいます。
 あるとき、全てが何でも良くなったのです。あれは、台風が近づいてきた、夏の真ん中の日でした。私が残業で帰宅するのが遅くなりそうなとき、あなたから、今日は会社で徹夜するから、家に帰れないと連絡が来ました。私はバルコニーに洗濯物を干しっぱなしにしていたのを思い出して、仕事を置き去りに、急いでマンションに帰ったのです。ぬるい夜でした。部屋着に着替えるのも惜しくて、玄関でパンプスを脱いだその足で、バルコニーに出ました。雨はちらほら降っていたけど、洗濯物は問題なさそうでした。ただ、風が強く吹き始めたので、急いで取り込みはじめました。
 風はごおっと音をたてたかと思ったら、急にゆるゆると流れるときもありました。方向も逐一変わるようでした。最後にバスタオルを幾枚か取り終えたとき、風が私に向かって激しくなだれ込んできました。あおられて、私は少し体がよろけましたが、実際何のこともなかったのです。しかし、私は、私の頬をかすめていった風のなかに、暖かい風と冷たい風が、また流れが遅いものと速いものと、それに幅が広いのと一点を突き刺すようなのが、互いに正反対の性質を持ちながら、まとわりあい、混ざりあっているのを、ありありと感じたのです。
 そこから、私は変わりました。一切合切以前の自分とは違う、まるで別人のようになったと感じました。もう元へは戻れないのかもしれません。そうして、旅立たなくてはならなくなったのです。
 あなたは、私の言葉を理解できないと思っているでしょう。私にも意味が分からない。だけれど、私の頬は、何かに気づいてしまったのです。
 左様なら。左様なら。うまく言葉にできなくて、ごめんなさい。左様なら」
書き置きは、破れていた。
 その端には、
「月くらし枯尾野に出で 火ともして
夫(つま)のかけらを拾い歩まむ」と走り書きがしてあった。

          二
 田中静は、同棲していた杏子が忽然と姿を消してから三日ほど、病を得たごとく家で寝たきりになっていた。その間、会社も無断で休んでいたので、電話がひっきりなしに、かかってきていたのだが、取り合う気力もなく、黙殺していた。
 置き書きを見つけたのは、やはり夜遅くのことだった。近頃、仕事がよくない形で忙しかったので、家には寝に帰るようなものだったし、杏子ともろくに顔を合わせてなかった。だから、置き書きを読んだときは、外に愛人でもいると思われたかと、訝ったが、自分自身派手に遊ぶような人間でないことは、杏子も承知していた。仕事の状況も電話ではあったが、詳らかにしていた。何より手紙の内容が、平生杏子の考えそうにもないものだったので、尋常で考えつく類の理由でないことは、はっきり分かった。本人の言う通り、静がこの出来事の要因ではないらしい。それは、静を一面安心させたが、同時に杏子の失踪に、何の手がかりもないことを意味していた。
 また外が日暮れていく。寝室の北向きの窓は閉め切られて、モノトーンでまとめられた部屋は始終暗かった。それなのに、夕方に物寂しさをひとしお感じいるのは、時の流れが緩慢になった静に、唯一外界の移り変わりを伝えてくれるものだったからである。
 この三日間、寝ているのか起きているのか、静は曖昧だった。眠りと現実の半ばにある、薄皮のような領域にとらえられて、浅い夢を見続けていた。会社からの着信が、都合二十八回あったことは、きちんとわかっていた。だが、杏子がいつもそうするように、やっぱり不思議な形ねと、ベッドに横になった静の耳を、細くやや冷たい指で、優しくこまやかに触り、撫でてくれたのも、確かに感じた。杏子がついこの間まで、静と一緒にこのベッドで、ともに過ごしていたのは、紛れもない事実なのである。静は、顔まで布団をかぶりなおした。
 またうつらうつらして、違う世界へ誘われるようである。これは、中学時代のある一日の記憶か。陸上部の短距離選手であった静は、それほど広くもないグラウンドを、縦に何本もダッシュしている。
 午後六時のチャイムが鳴ったややあと、文化部の生徒がぞろぞろと、グラウンド脇の歩道を通り、家路についていた。ゴールからスタート地点へ、ゆっくり戻りながら、グラウンドを挟み、喧騒の集団をちらちら見遣った。別に見たいという訳でも無いのに、目が向いて仕方がないのは、同学年の吹奏楽部員に、玲香という女の子が、そのなかにいるはずだから。
 生徒の列がまばらになり始めた後方に、玲香はいた。少し背の高い、すらっとした、つやつや光るボブの黒髪なのだ。玲香は、友達ふたりと一緒に、何やら楽しげに話している。静は少しうつむき加減に、しかし目線だけはしっかりとそこへ送った。
 夕日に玲香の白い制服が映えている。玲香が歩くにつれ、なんだか段々と姿が大きくなって、ますます目が離せなくなった。恥じらいのポーズも打ち捨てて、玲香をしかと見たとき、その人は玲香ではなくて、杏子であった。
 大学一年の冬に出会う小柄な杏子は、かつての意中の人の姿をして、そこにいた。それも確かに中学生の。ごく自然な振る舞いをして、知るはずもない友人と会話を交わしているのだ。
 杏子がこちらを見た。目が合う。そのとき、生徒も学校もグラウンドも何もかもが消え去って、世界は杏子になった。杏子の匂いがあたりに漂い、ほどけてぬたぬたになったあらゆる物たちはくすんだ桃色に染まり、杏子の性質を宿した。
 杏子は真正面にいる。その姿が大きくなったのは、近づいて来ているからではない。際限なくどこまでも広がろうとしているからだ。杏子が着ていた制服は、いつの間にか消え去って、あらわになった素肌は、ぼんやりと半透明に輝きだしていた。

          三
 数日経ただけで、世はすっかり秋色である。新しい季節の入り口に、荒凉の風が吹く。いつも薄着でばかり過ごしている静も、少々肌寒さを覚え、クローゼットの奥底に詰め込んであった長袖のスウェットを、着るだけ着て、久しぶりに家の外に出たのだった。
 郊外の私鉄沿線の住宅街。駅前の商店街をそぞろ歩いても、人影が全くない。たまに老女とすれ違う。思えば、平日の昼間なのである。本来、自分がいるはずもない時間だ。見知った街でも、知らない時間に来れば、そこは知らない街。静は、突然に息が急いて、目から涙が一粒ほろと流れた。これは、とても幼い頃、迷子になったときと同じやるせなさだと、暫くして気が付いた。
 シャッターが閉まるばかりの店々を貫く、細い道に従って行けば、コンクリートで高く護岸された小川にたどり着く。川沿いにはソメイヨシノが数限りなく植えてあって、春ならば花見の客でそれなりの賑わいを見せるが、今はただ、葉の薄くなった桜の枝が、風に揺られるだけである。
 この街に越して来たばかりのことを思い出した。杏子を連れて、ここの桜を見に来たのである。お互い出不精ではあったが、桜が見たい見たいと、いつになく杏子がしきりにせがんだ。静は、古い庭園や遠出して名所に行けば、もっと素晴らしいのが見られると、やんわり断ったのだが、それも拒んでなお行きたがった。それは、二人がこれから暮らす街のことを、よく知っておきたかったからかもしれない。結局静が折れて、花を見に行った。がやがやと人は多いし、まだ七分咲きくらいで、見頃とは言えなかった。静はあまり感心しなかった。杏子も何も言わなかった。ただ、桜の花の先に、遠く果てしないものを見ているような杏子の黒々とした目を、静は忘れられなかった。
 ふと、家もこの街からも、引き上げなければならぬと、啓示に触れたように、強く思われた。喪失から僅かな間で、杏子を諦めるような考えが浮かんだことは、静自身驚いたが、しかしこの街には、杏子の名残りが多すぎる。それは、杏子が今ここにいないことも、杏子を失った当日の、やり場のない感情も、明確な形をもって極彩色に、浮かび上がらせる力を有しているのだ。
 静はあの日、書き置きを読み切るや否や、すぐに杏子の影を追った。家中を隈なく見て回ったが、分かったのは、杏子がこの家で暮らした痕跡が一切なくなっていることのみであった。服や書籍はもちろん、箸やまだ回収に出さないゴミの類まで、きれいに消え去っていた。部屋全体も掃き清められていた。
 勢いで外には出たが、杏子はどこへ行ったのやら、全然見当がつかない。二人でよく行くスーパー、ガラス張りの喫茶店は外から見、それから弁当屋、散歩で一度訪ねたきりの公園まで、思いつく限り走って回った。むしむしする、雲ひとつない夜であった。脂汗がしきりに出て、それを拭うこともできなかった。それでも、杏子はいない。
 万策尽きて、けれど家にも帰れなくて、今さっき足の裏を踏みつけたばかりの駅に舞い戻った。改札を行き来する、多くの顔のどれかひとつは杏子ではないかと、目を凝らしてみたものの、そんな訳はない。
 思い出して、杏子の実家へ電話をかけてみる。杏子の両親は既に鬼籍に入っていて、祖父母がそこに住んでいた。二度顔を合わせただけの静を覚えているか分からなかったが、電話口の祖父は忘れずにいてくれたらしい。しかし夜半のことで、あまり要領を得ず、事情がいまひとつ伝わらない。祖父は、大丈夫、大丈夫と繰り返し、そのまま電話が切れてしまった。
 次第に人波も途切れ途切れになり、終には駅舎にシャッターが降ろされた。静の行き場もなくなったのである。
 仕方がない、杏子、探す。独り言が、どこへ向かうか自分でも分からない足取りに合わせて、勝手に口から出てくる。しかし、それも、杏子、探す、仕方がないの順番へ次第に変わり、静自身、自分の心情が分からなくなってきたのだった。
 静はマンションに戻った。柄にもないのに、家中のお酒を一度にたくさん飲んだら、気が紛れる以前に、猛烈な吐き気に襲われて、結局寝床で身じろぎひとつできない有様となった。
 頭だけはくるくると、段々速力を増して回り続け、あることないこと瞼の裏に現れては消えていく。
 そこに杏子の書き置きが、まるで絵画を眺めるように現れ出てきた。そこで、忘れていたわけではないのだが、あまり意味がわからなかった為になおざりになっていた、杏子の歌が意識されて仕方がなくなった。枯尾野とは、何処。気になり出せば、火がついたように枯尾野の在り方を知りたくなった。そうか、杏子はそこにいる。
 
          四
 ある朝、はたと目が覚めた。誰かが玄関の扉を壊れるばかりに叩いている。静を呼ぶ声も聞こえるので、大袈裟だと思いつつ、顔を出すと、そこには制服の警官と一緒に、青木さんが立っていた。
 青木さんは、静の勤める新進の出版社の社長である。四年前、同業他社に出仕していた静を、引き抜いたのである。静は若くもあったのに、それを厭わず重用してくれ、以来、主力のビジネス雑誌を、二人三脚で拡大させてきた。
 小柄ながら体躯の良い人で、今日も普段どおりの、気の利いたスーツ姿だった。底光りする紺色の袖口から覗いた厚い手で、控えめにジェスチャーをし、何か一言二言、警官と事務的なやりとりをした後、その人を帰して、静に話かけた。いつもの快活さは読み取れぬ、巌の顔色をしていた。
「昼飯を食べるから、君、来なさい」
 青木さんが部屋着で良いと言うのを、強いて断って、ジャケットだけは羽織って出た。青木さんがマンション前に待たしておいたタクシーに同乗し、どこかへ向かう。目的地は聞かなかった。聞く勇気や言葉がなかったのではない。聞くことができる人間では、最早なかったのである。
 車窓は、なめらかに灰色を延べ続けていた。幹線沿いの五六階建ての幅のないビルが、いつまでも途切れなかった。車通りは、少なくない。トラックばかり走って、時々風景を丸ごと消し去った。
 青木さんは、会社に電話していたらしい。静が生きているだとか、今日は会社には連れて行かないとか、誰かと打ち合わせているようだった。青木さんは、会話を終えると、ふうっと短い溜息をついた。
 連れて来られたのは、都心にほど近い焼肉屋だった。割合高級そうなところだった。タクシーを降りて、三階建ての建物に入ると、青木さんの顔を認めた店員は、すぐに二階の個室に案内した。席に落ち着くや、小綺麗な齢五十ほどの女将が挨拶に来て、そのままオーダーをとった。青木さんは、静に尋ねるまでもなく、あれこれと頼んだ。全てが済んで女将が個室の扉を閉めると、取り繕いようもない沈黙が訪れた。
 空調の音がいやに大きく響いていた。窓もなく、他に客もいない店の中は、沈滞した空気が、息苦しかった。
「同棲していた恋人が、失踪しました」
「そうか」
「仕事に戻ったほうが、良いでしょうか」
「いや、断然その人を探すべきだろうね」
話はそれで、終わった。いつか運ばれてきたお冷やが、からんと鳴った。
 青木さんが、おもむろに口を開いた。
「昔、富士山に登ったことがあったっけ。二十年は前のことだから、三十五六のときだったと思う。大学時代のごく仲間内でね、元旦の日、ご来光が見たいんで、えっちらおっちら岩場を這って、行ったわけだ。
 今考えれば、無茶をした。仲間で登山の心得がある奴など誰もいないんだ。皆、誰でも知っている富士山だと思って、舐めてかかった。確かに夏なら、それでも頂上に行けるんだ。天気が良くて、決められた登山道に従って、足元に気をつければ。
 だが、冬は違う。とにかく吹雪くんだ。視界は無いし、強風が体温を奪う。落石なんかしょっちゅうだ。仲間も、八合目の山小屋で二人リタイアした。高山病の気配があった。もう一人も九合目へ向かう途中で、足が止まった。もう無理だと。登り切れるかもしれないが、そうすると降りられなくなる。体力が続かないと、泣き言を言った。
 俺は励ましたんだが、やめると言ってきかない。だったら、俺も一緒に降りるよと切り出したんだが、お前は登れと言うんだ。もともと初日の出を見るのが目的なんだから、お前一人だけでも、頂上でそれを眺めてこいと。だからやむを得ず、仲間と離れて、俺は登り続けた。
 ふざけた思いつきが、冗談じゃなくなった。仲間は心配だし、俺も危ない加減で、気力も無くなりかけていたんだが、まぁ幸運だったよ。登山道を見失って、滑落することも十分あり得た。
 しかし、自然というのは、凄いもんだね。山に分け入って初めて、心底分かった。人間の考えなんか、これっぽっちも役に立たない。体の右から風が吹けば、吹き飛ばされぬよう、右に重心を置く。左から吹けば、左。その間、石が落ちてこないか、ぼんやりとあたりに気を配る。それだけで、人生がどうとか、生きる意味がなんだとか、余計なことに思いを巡らす暇さえなくなるんだ。
 俺は、ご来光を見た。確かに綺麗だった。しかし、そのとき俺は何故だか、綺麗だという言葉を使ってはならない気がした。綺麗なことは間違いないんだ。綺麗なのは、本当だ。しかし、綺麗だなあと自分が思ったところで、それが何の足しになると言うんだ。あんなもの、太陽から光が差し込んでいるだけの話じゃないか」
 さっきから、注文したのがきて、焼き始めているのだが、あまり捗らない。体裁を整えるために網においた、脂の多い肉は、みるみるうちに、黒く、硬く、縮こまり、火事場のような煙をもうもうと吐き出した。
「人というのは、もともと淋しい存在だ」青木さんは、そうぽつりと言った。
 
          五
 そういえば、今年も蝉が鳴いていたのだなあと、静は失くしものが、ひょっこり目の前に現れたときのように、思い出した。
 夏の盛りに、自分は何をしていたっけと頭を悩ませても、探る糸口がない。たったひとつのきっかけさえあれば、一遍に全ての記憶が蘇りそうなのに、追憶の先はもやもやとしたまま、自分の欲する通りに、形作ってはくれない。
 静は、久しぶりに電車に乗った。杏子の会社に行くためである。杏子の会社から一顧だに連絡がないことを、長らく不思議に思わなかったのは、自分の落ち度であったと、静は情けなく思った。
 杏子は、大手の玩具メーカーで、商品開発の仕事をしていた。小さな女の子むけの、人形だのドールハウスだのを担当していたらしい。三十をわずかに過ぎたという年齢からしても、珍しい昇進ぶりで、プロジェクトの一部を統括する立場にあった。会社の風土もあるだろうが、それだけ杏子が熱心に、仕事に取り組んでいた証でもある。
 試作品なのか、家にミシンまで持ち込んで、ドレスを着たお手製の人形を、慣れない手つきで朝方まで作っていた杏子の姿をよく覚えている。静はそれを微笑ましく思っていた。杏子は服装に無頓着な質で、暗色のパーカーに、ジーンズ、年季の経った白いスニーカーが、くつろいだときのお決まりの格好だったのである。
 また杏子は、休日どこかへ出かけると、必ず広い公園に立ち寄った。親子連れが目当てだった。小さな子が、どういう風に遊んでいるのかは勿論、その子らが親とどう触れあい、親も子供と如何に接しているか、そこまで観察していた。ときどき静に、あの母親は子供に習い事をさせすぎるタイプに違いないとか、その成果を報告してくれることもあった。これも恐らく、杏子の責任感故なのだが、偶に杏子自身の感慨に浸ることもあった。深淵に吸い込まれそうな表情をして、小さな女の子を眺めているのである。静はそれを知っていた。知りながら、見て見ぬふりをしていた。
 杏子の会社は、大手町にあった。初めて行く場所なので、駅から程近いと分かっていたのに、到着するまで幾分時間がかかった。高いビルの、大層なエントランスに入ると、先だって電話をかけたときに応対をしてくれた、杏子の同僚が出迎えてくれた。静が名刺を差し出そうとすると、とりあえず会社に上がりましょうと促され、代わりに来客用の通行証を受け取った。関わり合いになりたくないという顔をしているのではないかと、静は邪推した。実際、それ以外に会話はなかった。
 十何階だったか、そこに杏子の働いていた部署があった。杏子の同僚が、フロアの受付に備え付けてあった内線で、誰かを呼び出した後、小会議室と扉に書かれた、殺風景な部屋に通された。同僚はそのままどこかにいなくなり、その後お茶一杯、出てくる気配もない。
 左手につけた自動巻きの腕時計が、カチカチ音を鳴らす。耳にそっと時計を寄せると、歯車が絶え間なく、カシャカシャと動き続けているのがよく分かった。静は、段々とその規則正しい世界に釣り込まれていった。

          六
 扉をノックする音が聞こえた。ぼやぼやしていたので、いつから外に人がいたのか分からなかった。慌てて返事をすると、男性が二人、失礼しますと中に入ってきた。
 先に部屋に入ったのは、白髪の六十歳くらいの人で、黒地に白のストライプが入った、三揃いの背広を着ていた。もう一人は、白いTシャツに薄手のジャケットを来た、四十半ばくらいの人だった。
 儀礼上の挨拶は、実につっけんどんなものだった。例の如く名刺交換をして、相対する人達の素性が初めて知れた。
 年嵩は、肩書きに開発担当部長とあった。若いのは、プロジェクトリーダーと名乗っている。聞けば、杏子の直属の上司なのだという。静の名刺に先方は、さほど興味を示した様子もなく、話は早々に本題へと移った。
 端的に言うと、杏子は会社を辞めていた。七月の半ばに辞意を伝えられ、そのときの申し合わせの通り、八月末に自己都合の扱いで退職したという。口頭で辞めたいと言われたので、何故なのかはよく分からないと部長が言う。
 紙が一枚差し出された。それは会社側が用意した退職届だった。コピーではあったが、氏名の欄、小川杏子のその四文字は、確かに本人の筆跡に間違いなかった。理由の項には、一身上の都合の為としかない。
 今度は、プロジェクトリーダーの方が話し始めた。少々熱を帯びている。
「これは小川さんが辞めた後に発覚したことなのですが、彼女は、自分が関係した仕事の書類一切を、会社側に無断で廃棄していました。無論、全て捨ててよいものではありませんでした。
 業務の引き継ぎに関しても、口頭ではなく、書類にまとめて全部伝達すると言いながら、その実、その書類は提出されないまま小川さんは会社を去ってしまいました。
 小川さんは確かに大変優秀な社員でしたが、周囲とのコミュニケーションがほとんどない人でした。仕事をひとりで抱え込んで、他人に任せようとは、自分からは絶対にしませんでした。
 それでも必ず成果を出す方だったので、会社がそれに甘えていたという非は、多少あるかとも思います。しかし、それを考慮しても、普通こんなことしませんよ」
 怒声が響く。外に聞こえたかもしれない。部長が宥めて、話の後を継いだ。
「その為に、弊社の新規プロジェクトは一時頓挫しました。我々も小川君に何とかコンタクトを取ろうとしましたが、連絡はつかず、会社が把握していた自宅の住所は、どこかへ引っ越す前のものだったようで、直接会うことも叶いませんでした。本当に、万事休すだったのです」
 部長は少し間をおいて、
「よく考えれば、何らかの事情を知っているあなたが、ここを訪ねてくださったのは、幸運なことかもしれない」
そう言って、静に尋ねた。
「差し出がましいようですが、あなたと小川君は、どのようなご関係なのですか」

          七
 静は逡巡したが、無言を貫くわけには、いきそうもなかった。
「同棲していました」
静の答えに、二人は平静を装っていたが、驚いた様子なのは疑いなかった。それがどういう質の驚愕であったか、静は敢えて問わなかった。ただただ、ひとつ会社で何年も働いておきながら、身の回りのことを何も明かさず、同僚にかけらさえ心を開かなかったという、杏子の淋しさが、時をおいて響くばかりであった。
「それが過去形というのは、どうして」
「杏子は、ある日突然失踪しました」
静は、そう言っておきながら、自分の発した失踪という言葉を、受け止められそうにもなかった。
「それは、今どこにいるか分からないということですか」
「それどころか、生死さえ判然としないのです」
もう質問はなかった。
 佐藤という、杏子の二つ下の後輩が、割合仲良くしていたというので、呼んできてもらった。杏子の上役と入れ替わる形で、静と対面したのは、化粧をしているのかもはっきりしない、地味そのものの女性社員だった。
 三十路を前にして垢抜けぬ雰囲気があるところなど、杏子と通ずるものがあるかもしれないと、静は思った。佐藤がどれだけ、事態を呑み込んでいるかは分からなかったが、回りくどい聞き方はやめて、杏子について、知っていることを全て教えてくれと頼んだ。
 彼女が言うには、親しい間柄といっても、昼食をともにするくらいのものだったと。それも杏子は一人で食事することを好んだので、一緒にお昼を食べたのも、数えるほどしかないと言った。
 

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