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これからの死生観

"学問する人のポータルサイト"という謳い文句の"トイビト"というサイトがあります。そんなサイトを眺めていたら、以下のような記事がありました。

わたし自身は、"死生観"ということについてあまり発信をしたことがなかったのですが、ちょうどいい機会ですので、ここにぶちまけてみたいと思います。

いきなり"日本"という主語の大きな話題から書きますが、日本人の死生観は、新型コロナウイルスの対応がなんとなくで続く中で、徐々に…そして確実に蝕まれています。

現在、「家族の死に目で手も握れない」、「葬儀に行っても花も手向けられない」、そんな状況が続いています。皆さんは、なんとなくで「コロナウイルスが落ち着けば、以前のように手を握れる状態に戻る」と考えていると思いますが、これが何年も続くと、知らず知らずのうちにそれが当たり前となり、文化となっていきます。

「文化になってしまうことの何がダメなのか?」

そう思う方もいるかもしれません。しかし、今から書くことについても考えてほしいのです。

上のような状態が文化になってしまうことの"恐さ"は、多神教や無宗教と言われるものの、仏教や神道をベースとした宗教観を持つ日本人に取って、"よりどころ"をなくす結果になりえるというところです。

自分はもちろんのこと、家族が死を悟ったときにどんな死に方をしてもらいたいか考えたことがあるでしょうか?少し考えるだけでも、やはり手は握って送ってあげたいし、せめて家族だけでも目の前で声をかけて送ってあげたい…、そう思う人も多いはずです。

ただ、現在の状況は、そんな"当たり前"のことを難しくしています。たとえ送られる側が新型コロナウイルスに感染していないとしても、感染リスクを最小限に抑える措置として面会する人数を絞ったり、もっと悪いところでは面会すら許してもらえない状況が続いているのです。「コロナウイルスが落ち着けば元に戻る」と、思う方もいるかもしれません。しかし、それはいつになるでしょうか?政府や専門家と言われる人たちは、いつまでもそのウイルスを恐れ、日常を取り戻そうとしないリスクを軽視しすぎです。いまの状態が文化となってしまえば、日本人は、人の死に際に立ち会うことを避け、葬儀を最小限にし、最悪の場合は、葬儀などせずに直接火葬場へ故人を運ぶようになります。もちろん、全員がそうなるとは言いません。しかし、それが"当たり前"になってしまうのが問題なのです。

高齢の方や死期を感じはじめている方などは、その"恐さ"をひしひしと感じているかもしれません。それを感じ、声を上げている人もいるかもしれません。しかし、まだ死を身近に感じない人は、政府や専門家と言われる人たちの"事実"という言葉を信じ、それに怯え、自らや未来の人たちの死を、徐々にですが間違いなく軽視する方向に事を進めています。

"いま"動かないリスクを考えてみてほしいのです。いまの状態が"当たり前"になってしまえば、日本人は、死者を"モノ"のように扱うようになっていきます。死を迎える人を遠くから眺め、亡くなったことを確認すれば即火葬場へ運ぶ…。そんな未来も冗談ではなくなってきたのです。

あなた自身が送られるとき、そんな送られ方をしたいですか?あなたのお子さんや姪っ子甥っ子、そして、未来に生まれてくる子どもたちにそんな未来を引き継ぎたいでしょうか?今わたしたちが動かないことの責任を感じ、今できる行動を勇気を持って選択することが必要です。

小さな行動でいいのです。密でないところではマスクを外す、ワクチンを打つのは良いとして、今後打つ際には、オミクロン株(や新たに発生する変異株)に対する効果と、副反応や後遺症のリスクを"自分で"考えてみる。考えた末にいまと同じ行動をするのであれば、それはそれで構いません。しかし、多くの人たちが右へならえで同じ行動をしている状況は、少し客観的にみるだけでも異常に見えます。政府や自治体、そして世間が推奨することに少しでも疑問を持ち、それらが発する"同調圧力"に立ち向かってみてください。それをすれば、あなたの人生だけでなく、周りや未来の人の人生が、国や世間のものではなく、自分のものとして動き始めるはずです。

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