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自己肯定感はドン○に300円で売ってる?

「自己肯定感」とは?

よく聞く言葉だと思う。もともと心理学の中で提唱されたものだが、今ではビジネスのシーンや、個人間でのやり取りの中でも、実によく見かけるようになったと思う。

わたしの覚えている限り、この言葉をよく聞くようになったのは、2000年以降だし、初期からではなく、もっと後になってからだと思う。

特にブログやSNSが我々の生活の一部に落ち、繰り返し言葉が並ぶようになった文化の中で、とりわけ見かけるようになった気がする。

細かいデータが無いので、主観的なのだが、そういう印象は持っている。

正直な話をすれば、わたしはこの言葉にすごく違和感がある。今回はそのことについて記事を書いてみた。

自尊心との違い?

自尊心、という言葉もあるが、自尊心自己肯定感は同じではない。少なくともわたしはそう認識している。

自己肯定感というのは「自尊心」を持つうえで必要な細部だと思えばいい。

自尊心というのは「自分は出来る!といういわゆる自信」や「自分は尊い存在だ!といういわゆる自尊」、更に他者からの影響なども含めた、結構複雑な感情で、古くから研究されている(※そしてたびたび研究が覆ったりしている)。

なお、これまた高すぎても低すぎても、問題になったりはする。

自己肯定感というのは「今の自分を受け入れ認めること」という説明の方がしっくりくると思う。

そして確かに、自分を受け入れていなければ中々自信を持つことは難しいであろうし、必要以上に負の評価をしてしまうこともしばしばあるだろう。

自尊心の中でも、自信より「自尊」の方に含まれているものと考えるのがスムーズに思う。なんかもうすでにややこしくなってきたが…

とりわけ日本人はこの「自尊」の部分の基礎となる「ありのままの自分を受け入れる」という点が苦手なのではないか、という研究がしばしばされてきた。

そこには幼少期における経験や、周囲の特に大人との関わりの中で、得にくい環境なのではないか?ということを言及しだしたのが、始めだと思われる。

時々“self-esteem(セルフエスティーム)”と語られることがあるが、これは自己肯定感ではなく、自尊心のことを指す。

自己肯定感は“Self-affirmation(セルフアファーメイション)”にとなる。

自己肯定感の歴史。

臨床心理学者の高垣氏が1994年に出した書籍の解説辺りで述べているのが初出だ。その後、氏はより研究を進め、自己肯定感に関する本も何冊か出している。

第一人者と言える方であろう。氏は不登校の問題などにも大きく関わっており、その研究成果も含めて大きな貢献をしているのだろうと思う。

一般的に聞かれるようになったのは、やはり子育てやあるいは学び舎にて使われるケースが多くなってからなのではないかな?

自己肯定感を高めよう!
というキャッチフレーズの学習塾や方法をしばしば見かける。まあ、元々子供の心理研究の現場で生まれた言葉だから、筋と言えば筋か。

その後、2017年に教育再生実行会議による第十次提言にも組み込まれている。

自己肯定感を高め、自らの手で未来を切り拓く子供を育む教育の実現に向けた、学校、家庭、地域の教育力の向上(平成29年6月1日)

いわば国を挙げて、自己肯定感を高めましょう運動は行われているといっても過言ではない。

教育においては、重要なことなのかもしれない(教育の分野にはあまり詳しくないので分からないが)

わたしの違和感。

さて、なぜわたしがこの言葉に違和感を覚えるか。それは二つの理由がある。

■1「上がってるかよく分からない」という点。

これはわたしの気質の問題もあるのだが、とにかく“目で見て分かるもの”“数値化が可能なもの”以外は信ぴょう性が持てない。客観的にされていないとダメということだ。

客観性には必ず指標が必要になる。他者目線を持って自分を見ることを客観視と言われることがしばしばあるが、それはメタ視点なだけであり、客観視にはどうやっても数字が必要になる。

自己肯定感における客観性のある指標、はどこにあるのだろう?

診断シートみたいなものも見かけることがあるが、気分で変動してしまうような一時的なものを指標にするのはリスクしかない。

そもそもこうした“心理的なもの”は身長や体重のように、安易に客観視できるものでは無い(身長や体重でさえセルフでは穴だらけであることも少なくない)。

にも関わらず、ちょっと自信のない発言をすれば、自己肯定感が低いなあ、などと言われてしまってはいないだろうか?

他者からそのようにジャッジされ、自分でもそれを思いこんでしまえば、知らないうちに“自己肯定感”とやらは持てなくなるのではないのか?と思ってしまう。

それを言ったら自尊心も同じでは…?』と思うかもしれないが、そういう意味では同じだが、自尊心自己肯定感よりもさらに長く研究されている学問だし、そもそも自己肯定感はその一部でしかない(前述のとおり)。

またこうした“心理的なもの”は扱い方を誤ると、良くない循環に陥ることがしばしばある。

だ、か、ら、こ、そ!!専門家がいる。

専門家でも扱いが軽薄なことはあるのかもしれないが、とりわけ心理の専門家であれば、自己肯定感、自尊心、などの用語は簡単には使わないと思う(使わないよね????)

客観視しづらく、慎重に扱わねばならぬことを、学んでいるから。

なお、自己肯定感を上げよう!みたいな感じで謳っている「心理カウンセラー」の方もいらっしゃいましたが、民間出身のカウンセラーさんだったことをそっと記しておく。

■2「煩雑になりすぎた」という点。

いわば“ムーブメント化”しているのである。

これが起こると、よく分からない場面で用いられたり、よく分かっていないまま使われたりする、ということが増える。

ビジネスパーソンに必要なのは自己肯定感!
なんてクラクラするWEB記事を見かけた。

うっかりこういう記事を上司が読んで、部下に「君が仕事が出来ないのは自己肯定感が低いからだ!」とか言っちゃったら、どんなことになるだろうか。わたしはあまり良い結果が想像できないのだけど。

そもそも他人の肯定感についてジャッジをする本人の肯定感が、高いのか?低いのか?みたいな議論が必要になる(そしてそういうことをきちんと形態化していくことこそ学問の始まりだ)。

まあ…便宜上使う場合もあるかもしれないので、すべてが問題なわけではないけれど、そもそも“便宜上でも使える状態”こそが“ムーブメント化”である。

昨今では“多様性”とかが解りやすい。流行しすぎたせいで訳わからない使われ方を時々見かける…(笑)

言語というのは、覚えれば扱えるが、それにまつわる歴史や背景、研究、そして道義的責任。こうしたものは置き去りにされてしまいやすい。これは致し方ないことではあるが、もう少し慎重になった方が良いと思う。

心理はそんなに簡単な扉ではないのだから。

まあでも友人同士の会話の中とかで、なんとなく使ってる場面とか、自分の状態を話す時に自分で用いたりする分には別にいんじゃないのかな~?

とは思ったりするけど。

その言葉をどのように扱うか」という態度の方に違和感が覚えているという話。

そんな言葉は要らない。

そんなこんなで、わたしは違和感を覚えている。

勿論、この言葉を扱う中で、元気になったり、勇気を持てたり、ポジティブな成果を上げた人や、救われている方もいると思う。高垣氏の著書なんかも、すごくいい内容だった。

だから「自己肯定感!!おかしいそんなのは!!」という態度なわけじゃあない。

それを上げようと今も努力されている方だっていると思う。そのことは素敵なことであろうし、よもやま努力している自負があるならば、その気持ちをそのまま肯定してあげたい。

ただ、それによって苦しんでいる人もいるようにまた思う。

本人にとって簡単ではないことであるがゆえに、他者に簡単に言われてしまえば、わたしなら傷ついてしまうだろう。

そんな思いを抱える中で、先日一つの記事を見つけた。

精神科医であり、作家でもあられる岡田尊司氏の書かれた記事だ。以下はその抜粋である。

自己肯定感を持ちなさい、などと、いい年になった人たちに臆面もなく言う専門家がいる。

が、それは、育ち盛りのときに栄養が足りずに大きくなれなかった人に、背を伸ばしなさいと言っているようなものだ。

自己肯定感は、これまでの人生の結果であり、原因ではない。

それを高めなさいなどと簡単に言うのは、本当に苦しんだことなどない人が、口先の理屈で言う言葉に思える。

いちばん大切な人にさえ、自分を大切にしてもらえなかった人が、どうやって自分を大切に思えるのか。

むしろ、そんな彼らに言うべきことがあるとしたら、「あなたが自己肯定感を持てないのも、無理はない。それは当然なことで、あなたが悪いのではない。そんな中で、あなたはよく生きてきた。自分を肯定できているほうだ」と、その人のことをありのままに肯定することではないのか。

自己肯定感という言葉自体が、その人を否定するために使われているとしたら、そんな言葉はいらない。

現代人をむしばむ「愛着障害」という死に至る病
体と心を冒す悲劇の正体とは何か?
WEB記事

ああ、これだ。

岡田氏は時々厳しくも的確な指摘をなさる。個人的には厳しすぎて「おお…マジか…」となることも時にあるのだけれど(笑)

とりわけわたしが覚えていた違和感もここにあると思う。

~自己肯定感は、これまでの人生の結果であり、原因ではない~

そう、結果なのだ。だからこそ他者が評価をするという状態は、その人の生きてきた道に介入していることになりかねない。それが否定であれば、もはや侮辱行為であろう。

生きてきたことが素晴らしい」のだ。

だからこそ、会って、話が出来る。どんな状態であろうと、それをまずはただただお互いに受け入れることが、お互いにとって健全な肯定ではないか(他己肯定感とかになってくるのかもしれないけど、それもとにかく自尊心で十分に語れるのだ)。

わたしも、まだまだ振り返って、誰かを傷つけてしまった経緯を見直していかねばならない。専門家では無いから、わたしだって心理のことを軽薄に扱うべきではない。

けれど、そんな自分を肯定しながら、いま一緒に生きている人々と、お互いに支え合いながら、生きてきたことを喜べるようになりたいな、などと思ったりした。

自己肯定感はド○キで300円で売ってるから、買っておいで!

わたしがしばしば口にするジョークには、そんな思いが込められています。今日も、生きてこの記事を読んでくれたあなたにありがとう。

では。


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