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生きるということを考える。差別と排除と分断と炎上とマウンティングについて。

年末にめんどくさすぎる。当然のように紅白と笑ってはいけないを交互で見るべきだと思う。このタイトルのブログは読むべきでもないし、書くべきでもない。でも書きたくなったので書く。

「意外と自分って繊細だったんだな」という気づきは、自分の中でも大きかったなと思う(今年の発見!)。

基本的に細かいことは気にならないと思っていたし、いろんなことを適当にしている部分も多いのだけど、その実そうじゃないところもあるんだということに気がついたことは、自分の中でも大きなインパクトだったように感じている。

以前、以下のようなブログを書いている。
https://note.com/fujimotoryo/n/n1e1083be6782

結局、自分の中で乗り越えられていない壁があり、消化(昇華)しきれていない出来事がある。でも、それらについて、その事実だけではなくて、自分がその時その瞬間どう感じていたのかということを丁寧に共有すること(あるいは追体験すること)によって、自分自身を回復させていくことが重要なのだろうと思っている。

今年からその試みを少しずつはじめた。

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最近、とみに「多様性」という言葉を聞く。ぼくは結構、釈然としていない。その言葉から醸し出される空気に、いくばくか思うところがあるのだ。

・多様性とは属性(ラベリング)で測れるものではそもそもない気がするが、ラベルを強烈に見られている気がする。
・そうすると結局本質(個人の感情や考え方、哲学)は見られずに、ラベルやカテゴリーでばかり評価、あるいは判断されることになるんじゃないか。果たしてそれは楽しいことなのか。
・また、スキルやできることをベースにして多様性が捉えられているような感じがする(ビジネス界隈の話)。生産性の文脈のみで多様性が語られることの恐怖感。
・それは結局「価値を生み出せないヤツの多様性はいらない」「迷惑をするヤツの多様性はいらない」という話になる。しかし、弱者の排除を防ぐことこそ「多様性」というキーワードを使って目指されていることなのではないだろうか(それはもちろんビジネスの論理における多様性が不要であるという話ではない)。
・そして、ぼくの実感では、まず多様性は自己(しかもunknownな自分)の中に見出されるのではないだろうかという感覚がある。しかし、我々は自分の外部にばかり多様性が見出されると思っていないだろうか。

などなど。

多様性って、なんなんだろう。

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ぼくがずっとバイブルにしている書籍がある。加藤哲夫さんの『市民のネットワーキング』という本。それは、30年前くらいに書かれた(話された)テキストをベースに2011年に発行されたものだ。

その本の中にこんな一節がある。過去に語られたとは思えないくらいに、めちゃくちゃにヴィヴィッドな示唆である。引用してみたい。

「私たちが社会生活を営むための秩序形成とは、根源的に異質なものを排除することによって獲得する同一性(アイデンティティ)形成の力なのであるとすると、常に異質なものはつくり出され、排除され、差別され続けるということになる。その根源的な絶望を認識した上で、どのような『共生』を言うのか。」

彼はなにを言っているのか。

それは「私たちは、生きていくために常に異質なもの(自分たちとは異なる存在)を生み出し続けている」ということである。そうでないと「同一性や共通性の確認ができない」のだと。そして「その絶望を認識した上で、自分たちはどうしたらいいのかを考えることが重要なのである」と彼は語る。ここに、現代で言われているところの多様性とは明らかに異なる(とぼくには感じられる)視野が開けてくる。

それは「多様性というものは(あなたの)外部にも存在するけれども、よりあなたの中にあるのではないか」という問いであり、そして「それは、往々にして見えづらくなってしまったものなのではないか」という問いである。「見えづらくなってしまったもの」という部分をより直接的に表現すると「見たくもない自分の汚いところ、卑怯なところ、恥ずかしいところ、グロテスクなところ、差別的なところ」とでも言えるだろうか。

「多様性はどうすれば実現するのか?」を問う前に問わないといけないとても苦しい問いがこの「自分は誰(なに)を、いかにして、差別・排除・蹂躙しているのか」ということなのではないかと思う。そこを考えることなしに、一つ目の問いは機能しないのではないか。未知の自分に出会っていくそのプロセスこそが、多様性を実現するために不可欠であるとぼくは思う。

それはどうしてか。なぜなら普段のぼくたちは、役割の中の自分に埋没してしまっているからだ。社会生活を営む上でぼくたちは多様な役割を担っているわけだけれど、自分の中の本音に出会う機会はどんどんと減っていってしまっているように思う(これは前回のブログにも関連のことを書いている)。本当は自分ってどう感じているんだろう?を問う機会(あるいは扱う機会)って、どれくらい担保されているのだろうか。

差別や排除というものは、概して意図的に行われるものではない。排除という言葉がしっくりこないのであれば、気づかないふりをしているという表現でもいいかもしれない。「生きている中で、気づかないふりをしていること(でも現に社会や自分の中にあるもの)はなんですか?」と問われれば、ぼく自身はといえば、結構思い当たることがあるように思う(冒頭の気づきもそれだ)。

けれども、最初違和感や自分のテーマであったそれらは、日常生活を営む上では「不要なもの」であるため、無意識の部分に埋没していく。これが、今ここで言っていることだ。この埋没した自分の感覚や感情、違和感など(=見えづらくなってしまったもの)に出会っていくプロセスそのものが、多様性への気づきなんだとぼくは思う。なぜ「不要なもの」かと言うと、自分ではどうしようもできないと思っているから、処理できる問題ではないと思っているから、問い続けることは面倒なことであると思っているから、などの理由があると思っている。

上で引いた加藤さんの言葉を社会の真理だとするならば、誰しもがなにかを排除し、差別していることになる。だから、答えるべきなにかは誰にでもあるのだろうと思う。

めちゃくちゃに苦しい「問い」がある。見ていなかったなにかを浮かび上がらせ、自分と接続するための「問い」。これはしんどいんだよね。本当に。

それでもぼくたちは問うのだろう。なぜならばそうしない限りにおいて、新しい地平は見えてこないから。つくれないから。表層的な理解では届かない真実や創造があるのだとぼくは思っています。そういう解決し得ない問いをこそ、みんなと共有したいなあと。

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「ミーツ・ザ・福祉」という取り組みをこれまでやってきた。結構たくさんの人にそこで出会ったし、障がい者と言われる人たちとの関わりも増えた。けれど、自分の中で違和感として蓄積していたことを、ぼくはなかったことにしていたように思う。

『わたしの身体はままならない〈障害者のリアルに迫るゼミ〉特別講義』という書籍にある一節。ぼくの無意識を揺さぶった。

(中略)私が弟を子ども扱いし続けてきたことにも気がついた。弟はこちらの言うことはほとんど理解しているし、不明瞭な数十個の単語とそれを補う手言葉を使っていつも話し続けている。私は自分自身のことを弟にきちんと話してきただろうか。友達と話すような恋の話。両親に話すような将来の話。何も話していなかった。だから、どこまで分かってもらえるか、どれくらい反応してもらえるかはわからないけれど、とにかく弟に伝えてみよう。それがきょうだい児としての私と、障害のある弟という関係ではなく、本当の兄弟になる第一歩だと思った。

重度の知的障がいのある弟と、彼との関わりを映画に記録しようとする筆者。弟を「記録の対象」と見做して映画にするのではなく、本当の兄弟の関わりをそこで描いていく。そうした短い話だった。

この部分を読んで「ああ、ぼくもそうじゃないか」と思った。結局、障がいのあるみんなとたくさん関わってはいるけれども、本当に話したい話をしていないじゃないかと。このブログで書いているような「ややこしい(解決し得ないような)話」をぼくはしたい。そういうことをあまり話していないじゃないかと自分に思った。なので、来年やります。

思いやるということと、遠慮するということと、配慮するということと、差別するということ。これらは行ったり来たりをしながら、絡まり合って存在しているような気がしていて。難しいなあ、といつも思うわけです。ちょっとずつ、ちょっとずつ。

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今年は特に「炎上」をよく見たなあ、という気がしている。「炎上」ってなんなんでしょうね。

ぼくは端的に「世界を自分の力で変えることはできない」という無力感の表明なんじゃないかと感じている(これも前のブログと関連している)。完膚なきまでに「間違えた人」を叩き潰すことで、自分の正当性を証明する。でもそれは概して燃え移ることのない場所から行われる。それは価値なんだろうか。

叩かれる人がいることも悲しいし、叩いている人がいることも悲しい。どっちも悲しいんだよね。本当は。その悲しみを共有する場所がないことも悲しいから、それはちょっとずつつくっていきたいと思っているんだよね。

自分の正しさ(あるいは価値)をなにかと比較することでしか感じられないがゆえに、人を叩いたり歪めたりする。それ以外の方法論をそろそろぼくたちは開発していかないといけない。

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マウンティングおじさんという言葉が一時、流行った(今も?)。ぼくもおじさんにさしかかっている中で「いかんいかん、マウンティングおじさんになっているかもしれない」と思うことがないわけではない。

過去に書いたこのブログもマウンティングに近しいものを感じる。
https://note.com/fujimotoryo/n/n480eacf17b5f

自分の経験の蓄積(安っぽい「成功体験」のようなもの)を盾にして、誰かを見下す(あるいは教えてあげる)ような態度をとってしまっていることがあるように思う。これは本当に情けない態度だと思う。気をつけたい。

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なんだろうな。ぐるぐるするけれども、ぼくが抱いている今一番の問いは以下のようなものなのかな。

人間という生き物は、異質なものを排除したり、相手よりも上に立ったり、正義感を盾にしたりしないと、自分の存在根拠を確立することができないのか。そうではない可能性があるとするならば、それはいかなるときに実現されるのか。

わたしであり、あなたであるということを認め、共有するために、そして多様な人々(やそれ以外)とともに取り組んでいくために、自分たちにはなにができるのだろうか。どのくらいの距離感で関わり、どのくらいの距離感で関わらないようにすればよいのか。

「無関心」と「不寛容」が際限なく広がっていく社会の中で、それでも楽しく関心を持ち続け、自分と相手を許し続けるために、どのようなことが必要なのだろうか。

「人間」というものを考えていきつつ、きっと人間以外のことも考えないとそれらのことは解決しない気もするので、たくさんの素敵なみなさん(動物も含めて)といろいろと考えていきたいなあと思うのでした。

前のブログで今年最後の、とか言いながら面倒くさいことをまた書いちゃったな(笑)。来年はもっとみなさんと真剣に面倒なことを語り合って、そこに向き合っていきたいなと思います。それが面白いんですよね、きっと。

また、コメントなどくださいね。元気になりますので。では、笑ってはいけないを見ましょう(まだM-1全部見てない)。

最後までお読みくださいまして、ありがとうございます。更新の頻度は不定期ですが、フォローなどいただけると大変うれしいです。