見出し画像

「素直」について考える

先日、私が参加している「知心会」の3月の定例講に出席しました。「知心会」では、ありのままの己の心を観ながら仲間と共に研鑽する機会の一環として定例講があります。

この日の定例講では、「素直」がテーマのひとつになりました。

一代で松下電器産業(現・パナソニック)をつくりあげた名経営者の松下幸之助氏が、人生で大切にしていたのは「素直な心」だったと言われています。それぐらい「素直さ」は、経営者にとって、あるいは経営者以外のすべての人にとっても、よりよい人生・職業生活を送るうえで大切なのだと思います。

そのうえで、その「素直」について、どのように捉えて、どのように向き合えばよいのでしょうか。

「素直」という言葉の意味について、デジタル大辞泉では次のように説明されています。

1 ありのままで、飾り気のないさま。素朴。
2 性質・態度などが、穏やかでひねくれていないさま。従順。「—な性格」「—に答える」
3 物の形などが、まっすぐで、ねじ曲がっていないさま。「—な髪の毛」
4 技芸などにくせのないさま。「—な字を書く」
5 物事が支障なく、すんなり進行するさま。

東洋経済オンライン記事「松下幸之助は「素直な心」が成功の要と考えた」(江口 克彦 氏。2016年7月29日当時、一般財団法人東アジア情勢研究会理事長、台北駐日経済文化代表処顧問)では、松下幸之助氏の言葉を回想しながら「素直」について書かれています。一部抜粋してみます。

松下幸之助は、「自然の理法は、いっさいのものを生成発展させる力を持っている」と考えた。だから、素直な心になって自然の理法に従っていれば、うまくいく。世の中は成功するようになっている。

ところが、私たちにはなかなかそれができない。自分の感情にとらわれる。立場にとらわれる。地位や名誉にとらわれる。自然の理法になかなか従うことができない。それゆえ、かえって状態を悪くする。無用な苦労をする。望むような結果が得られない。

「それがうまくいかんというのは、とらわれるからや。素直でないからや。だとすれば、素直でないといかん、と。素直な心こそが人間を幸せにし、また人類に繁栄と平和と幸福をもたらすものであると、わしはそう考えたんや」

しかし松下の言う素直な心とは、人の言うことになんでもハイハイと答えるということを言っているのではない。無邪気な心のことでもなければ、幼児の心のことでもない。それだけでは、ほんとうの素直ではない。

正邪、善悪、表裏の存在を知りながら、なおかつそれにこだわらない。偏らない。たんなる無心でもない。自分が悟ればそれでよしとするものでもない。素直な心になることは、決して易しいことではない。

自然の理法はやるべきこと、なすべきことをやっている。早い話がお日さまはきちんと東から出る。西に沈む。春が来て、夏が来て、秋が来て、そして冬が来る。

人間もやるべきこと、なすべきことをきちんとやれるかどうか。逆になすべからざることは絶対にやらない。そういう振る舞いができるかどうか。自然の理法に従うというのは、決してそう易しいことではない。

「まあ、わしはそういうようなことをみずから考えながら今日までやってきた。宇宙万物自然というものが、わしの先生でもあったわけやな。わしの経営についての考え方は、経営というひとつの枠のなかだけで考えたのではない。わしはいつもその枠を越えて、宇宙とか自然とかそういうものに考えを及ぼし、そこで得られたわしなりの結論を経営に応用したんや」

今日私たちがここに存在している、その源をたどれば、初めての人間を通り越して宇宙の根源にまでにいたる。そうすると、「ここに存在できていること」への感謝の思いは、実にこの宇宙の根源に対してでなければならないということになる。それで松下は、根源の社をつくった。

私はあるとき、ひょいと「根源の社の前にお座りになって、そのあいだ何を考えているのですか」と尋ねたことがある。

「うん、今日、ここに生かされていることを、宇宙の根源さんに感謝しとるんや。ありがとうございます、とな。それから、今日一日、どうぞ素直な心ですごせますように、すごすようにと念じ、決意をしとるわけや。ここはわしが感謝の意を表し、素直を誓う場所やな」

読者に根源の社を押しつける気持ちはまったくない。ただ、自分がそういう宇宙根源から、そして人間の始祖から連綿とつながっていると思えば、おのずと自分の値打ちの重さを感じる。そう感じれば、おのずと自分の人間としての重さを自覚する。そして、感謝の念が湧いてくる。この感謝の気持ちを持ちながら、日々をすごすことが大切だと思うのである。

同記事からは、「素直」について、冒頭の辞書的な意味に沿いながらも、そこからさらに進んで、人間という存在や生き方の本質に迫りながら、「素直」の概念に向き合われているのを感じます。

上記を私なりに解釈し、要約すると、次の通りです。

・自分の存在の根源に思いをはせる。
・すると、宇宙万物自然に至る。
・そして、自然の理法に従う。やるべきこと、なすべきことをきちんとやる。
・自分が生かされていることに日々感謝する。

知心会の定例講では、次のようなお話がありました。

・親や他者、ネット、本に言われたことを鵜呑みにするのが素直ではない。素に直でつながるのが素直の語源。「素」は「もと」と読むことができる。「おおもと」と考えるとさらにイメージがわく。「直」は「じか」。すなわち、「素直」とは、「自分の「おおもと」に対して、じかにつながろうとする」ことである。

・自分の「おおもと」とつながる努力をし続けることが大切である。先祖か、親か、自然か、宇宙か、神か。答えは人それぞれかもしれない。丹田(へその少し下のところで、下腹の内部にあり、気力が集まるとされる所)にある魂が、自分の見出した「おおもと」にじかでつながって生きるようなイメージが持てていれば、「素直」に近づく。

・自分らしいイメージで、自分らしく「おおもと」とつながっている感覚がもてるとよい。

「素直になる」「素直である」というのを、辞書的に「ありのままで、飾り気のないさまになるには、どうしたらよいか」と捉えようとすると、そこから先に進みにくいかもしれません。「自分のおおもとに思いをはせて、そのことに感謝し、やるべきと決めたことをやっていく」と捉えると、「素直になる」ということについて、もう少し手触り感がもてそうです。

自分の存在の根元がどこにあるのか。自分が今いる経緯を認識し、自分の使命を自分なりに言語化する。そのことに正解はなく、自分との対話の時間をもち問いかけていくことでしか、答えは見えてこないのだと思います。自分なりの答えが見えてくれば、時間の使い方が変わる。

ちなみに、定例講では次のようなお話も聞きました。

・「鏡(かがみ)は、真ん中に「我(が)」が入っている。鏡を見て、そこに映った自分から「我」を抜くことができれば、かみ(神)が見えてくる。

上記で言う「かみ」とは、松下氏の言う「自然の理法」や「おおもと」とほぼ同じことだと思います。

すぐ目の前のことに意識が集中してしまっている「我」から時には少し離れて、自分の「おおもと」がどこにあるのかを、1日のうちわずかな時間でも考える時間をとってみることは、「素直」に近づく一歩になる気がします。

<まとめ>
「素直」とは、「自分の「おおもと」に対して、じかにつながろうとする」こと。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?