月間致知6月号で、井村屋グループ会長CEO中島伸子氏への特集取材記事「希望は失望に終わらず 人生のハンドルを握り扉を開けられるのは自分だけ」を読みました。女性の社会進出が難儀だった時代の中で、アルバイト出身から同社初の女性社長に抜擢されていった中島氏によるお話は、たいへん示唆的で印象に残りました。
かなり重厚な内容の記事なのですが、その中から個人的に最も印象に残ったのは、中島氏の生死を分けるような体験です。同記事から一部抜粋してみます。(所々中略)
先日、私が参加している読書会で同記事がテーマだったのですが、印象に残った部分として多くの参加者が挙げていたのが、上記の事故でした。想像を絶する出来事で、読んだ直後は言葉が見当たりませんでした。
雑誌致知では、いろいろな人物について取り上げられますが、壮絶な体験から何かを感じ、それを生きる糧としてきたという方の話が時々紹介されています。中島氏の体験も、まさにそのことに該当します。
読書会参加者との間で、記事の感想に基づく意見交換を行いました。その中で、「あまりにも自分がのうのうと生きているのではないかと感じる」と自分を省みての感想も出ました。
そして、参加者の間で、(結論というわけではないですが)見解が一致した点が2つありました。
1.壮絶な体験は狙ってできるものではないし、またわざわざする必要もない。書物などを通して、同記事のような体験から何かを思い何かをなした人の話に触れ、追体験というか疑似体験というか、自分なりに何かを吸収しようとすることで、自己探索(限られた一部とはいえ)の手がかりにはなるのではないか。
2.この事故に匹敵するほどの壮絶な体験を自分は持ち合わせていないとして、自分にとっては大変だったと言えるような出来事は何かあるのではないか。そこで何を考えどうしたいと思ったかが、今の自分のパワー、パッション、愛につながっているはず。そうした自分との向き合い方をしてみるとよいのではないか。
2.について、私自身もいくつか思い当たることがあるものの、それを中島氏のように自分の中で言語化し、常に意識して行動に反映できるほど自己探索はできていないと感じました。このことは、引き続き取り組んでみたいと思います。
同じ記事を持ち寄って読み合わせをし、感想を伝え合う。自分ひとりの読み方では気づかなかった角度からの考察ができたり、いろいろな人の感性に触れてそこから何かを感じとったりすることができるのが、読書会のよさだと思います。
同記事の内容について、また次回以降取り上げてみたいと思います。
<まとめ>
自分なりの大変だった出来事から、自分の糧になっていることを認識する。