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人生のハンドルを握り扉を開ける

月間致知6月号で、井村屋グループ会長CEO中島伸子氏への特集取材記事「希望は失望に終わらず 人生のハンドルを握り扉を開けられるのは自分だけ」を読みました。女性の社会進出が難儀だった時代の中で、アルバイト出身から同社初の女性社長に抜擢されていった中島氏によるお話は、たいへん示唆的で印象に残りました。

かなり重厚な内容の記事なのですが、その中から個人的に最も印象に残ったのは、中島氏の生死を分けるような体験です。同記事から一部抜粋してみます。(所々中略)

──今回、「希望は失望に終わらず」という特集で中島会長にご登場いただこうと考えた背景の一つに、北陸トンネル列車火災事故(1972年11月6日未明に発生)の壮絶な体験があります。これは運命を大きく変える出来事でしたね。

はい。この真っ黒焦げな列車の写真を見れば状況がよく分かると思いますけど、死者30名、負傷者714名を出した大惨事でした。

11月6日が事故の日で、11月8日が私の誕生日でした。当時、福井県に1人で暮らしていたのですが、家族が20歳の誕生日をお祝いしてくれるというので、敦賀から夜行列車に乗りました。

4人掛けのボックス席で、目の前に3人の子供を連れたお母さんが座っていらして。生後2か月の子と3歳と5歳、皆男の子でした。一番下の子は今回おじいちゃんとおばあちゃんに初めて会わせると。上の子はおもちゃを買ってもらうのが楽しみでなかなか寝られない。そんな話をしていたんですね。

で、トンネルに入ってすぐでした。ガターッとものすごい音がして電気が消えて真っ暗になったんですよ。でも、私たちの車両は明るかった。なぜって隣の食堂車が燃えていたからです。

次の瞬間、さっき出会ったばかりのお母さんが私の腕をギュッと掴んで、泣きながら言うんです。「3人の子供を連れては逃げられない。だけど長男は跡取り。この子だけでも連れて逃げてほしい」

それで私は「嫌だ嫌だ」「お母さんお母さん」と大泣きする5歳の男の子を抱きかかえて窓から飛び降りたんですね。ところが、着地した時の衝撃で子供の手を離してしまった。どこにいるか全然分からない。黒煙が充満する中、一所懸命名前を叫んで捜しているうちに気絶してしまったんです。

意識を取り戻したのは、事故から2日後のちょうど私の誕生日でした。それまでは生死の境を彷徨っていて、向こうで誰かが呼んでいるような感覚も実際ありました。両親が病院のベッドで寝ている私の傍で泣いていて、その涙が肌に触れた瞬間、冷たくて「あれ?」って。それで目が覚めたんです。

その直後に、お母さんと3人の男の子が全員亡くなったことを知らされました。救ってあげられなかった辛さはいまもずっと残っています。あの時の5歳の子の顔が忘れられなくて……、毎年11月8日になると自分の誕生日を祝うよりも、あの子が生きていたらいま頃どんな人生を送っていたのかなって……。

私自身、一酸化炭素中毒で声帯が麻痺して声が出なくなり、3か月入院しました。最初に喉のどから煤(すす)の塊が出てきた時は驚きでしたよ。声を使う仕事は諦めたほうがいいと医者に言われ、教師の道を断念せざるを得なかったんです。自分の行き先がある日突然プチッと切れてしまった。少しずつかすれ声は出るようになりましたが、退院して3~4か月は実家で療養しながら何もせずにぶらぶら過ごしていました。

──その後どうされたのですか?

ある時、父が手紙をくれましてね。こう書かれていました。
「君は自分の人生をどうするんだ。声が出なくても立派に生きている人はたくさんいる。声が出ないことを気にするんだったら、自分だけの〝プラス1〟を探しなさい。それがあれば必ず人の役に立つ。〝辛い〟という字に一本足せば、〝幸せ〟という字になる。それを忘れずに一所懸命生きていくことが亡くなった人への恩返しであり使命ではないか」

この手紙は非常に心に残っていて、アルバムに貼っていまでも大切に持っています。
当時の私は、あのお母さんから託された子供の命を救えなかった後悔や事故の後遺症で教師の夢を絶たれた無念にさいなまれ、この辛い気持ちをどうしたらいいか分からない、誰かに救ってほしいという未熟さがあったんですね。父の言葉が何にも代えがたい心の支えになり、それをきっかけに立ち直っていきました。

短大を卒業後、高校時代の同級生と結婚し、声をあまり使わなくてもできる仕事をと思って始めたのが、井村屋の福井営業所での経理事務のアルバイトだったんです。

先日、私が参加している読書会で同記事がテーマだったのですが、印象に残った部分として多くの参加者が挙げていたのが、上記の事故でした。想像を絶する出来事で、読んだ直後は言葉が見当たりませんでした。

雑誌致知では、いろいろな人物について取り上げられますが、壮絶な体験から何かを感じ、それを生きる糧としてきたという方の話が時々紹介されています。中島氏の体験も、まさにそのことに該当します。

読書会参加者との間で、記事の感想に基づく意見交換を行いました。その中で、「あまりにも自分がのうのうと生きているのではないかと感じる」と自分を省みての感想も出ました。

そして、参加者の間で、(結論というわけではないですが)見解が一致した点が2つありました。

1.壮絶な体験は狙ってできるものではないし、またわざわざする必要もない。書物などを通して、同記事のような体験から何かを思い何かをなした人の話に触れ、追体験というか疑似体験というか、自分なりに何かを吸収しようとすることで、自己探索(限られた一部とはいえ)の手がかりにはなるのではないか。

2.この事故に匹敵するほどの壮絶な体験を自分は持ち合わせていないとして、自分にとっては大変だったと言えるような出来事は何かあるのではないか。そこで何を考えどうしたいと思ったかが、今の自分のパワー、パッション、愛につながっているはず。そうした自分との向き合い方をしてみるとよいのではないか。

2.について、私自身もいくつか思い当たることがあるものの、それを中島氏のように自分の中で言語化し、常に意識して行動に反映できるほど自己探索はできていないと感じました。このことは、引き続き取り組んでみたいと思います。

同じ記事を持ち寄って読み合わせをし、感想を伝え合う。自分ひとりの読み方では気づかなかった角度からの考察ができたり、いろいろな人の感性に触れてそこから何かを感じとったりすることができるのが、読書会のよさだと思います。

同記事の内容について、また次回以降取り上げてみたいと思います。

<まとめ>
自分なりの大変だった出来事から、自分の糧になっていることを認識する。

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