中国の拝金主義
澳門人の友人に、中国人とはどういう人なのかを聞いたところ、返ってきた答えは「拝金主義」だった。
血を重んじる中国人
よく中国人は「血を重んじる」という。これは血統のことで、血のつながりのある一族の結束を重視するという意味であり、転じて、血のつながりを重視するという意味でもある。
実は中国人の姓は、結婚しても変わらない。
李という女性と陳という男性が結婚したとき、日本風に言えば、李さんは陳さんに姓が変わる。もしくはその逆でもいい。ともかく片方の姓に統一される。だが、中国では、結婚しても李さんは李さんのまま、陳さんは陳さんのまま。結婚すると、李さんは「陳太太」とよばれるそうで、これは陳さんの奥さんという意味。でも正式な姓は李さんのままだ。
これをして、結婚して女性が男性の姓に変わらないと言うことを、女性の権利が認められているという日本人がいるけれども、実際には違う。
一族の中で、一族の名前を持つ者は、同じ血を持つ者であり、一族の名前を持たない者は、一族の血を持たない者である。そのことが一目でわかるために夫婦は別姓になっているに過ぎない。なぜなら、結婚して生まれたどもは、基本的には男性の姓を受け継ぐ。子供は男性の一族の血を受け継いでいるからだ。
ぱっと見ただけで、お母さんは他人、子供とお父さんは血縁とわかる。
結婚した女性は、夫の家族から、死ぬまで一族としては認められないと言うことでもある。
同様の意味で婿養子という制度はない。
日本では女性しか跡継ぎがいない場合、また子供に家の仕事を継ぐ才能に欠ける場合などなどの理由から、養子をとることがある。婿養子(娘の婿)であれ、単なる養子であれ、血のつながらない息子が、家を継ぎ投手になるケースは少なくない。これによって、本当に才能のある人に、家の事業を次いでいくことで、家の繁栄を図ってきた。
しかし血のつながらない男性が家を継ぐと言うことは、中国ではあり得ない。婿に入った者は、一生一族ではない。この男性は子供を作るための存在であり、娘から生まれた、一族の血を持つ息子が次代を担う。息子が生まれるまでの間、仮の当主になるのは娘の方なのだが、これは本当の当主としては扱われないそうで、ましてや婿は、当主としては認められない。
この辺はいい悪いではなくて、こういう習慣と言うことだ。
韓国でもこの辺は同じようで、むしろ婿養子という名の他人を当主に迎える日本の習慣の方が変わっているようだ。
親友が2人いれば何でもできる
血を重んじる中国人にとって、血のつながらない他人は、関係が一段低いことになるが、それでも親友と呼べる関わりは存在する。この関わりは非常に深いそうで、「親友が2人いれば何でも出来る」と言うことを言うそうだ。
かつて中国から日本に来る留学生が多かった時代がある。当時は中国の教育制度が日本よりも遅れていたし、経済的にも明らかに日本の方が豊かだったこともあり、日本に来て一旗揚げたいという中国人が少なからずいたらしい。
しかし日本に留学するのはとてもお金がかかることであり、限られた人の特権と見なされていたそうだ(国費留学の道もあったと思うが、それだけ狭き門だったようで)
日本人の友人が中国に留学したとき、現地で会った中国人が、日本に留学したいと言っていたそうだ。そのとき「僕には親友が二人いるから大丈夫」と言われたそうだ。つまり、3人の人間のうち、2人は自分の財産からお金を出し合い、1人を日本に留学させる。するとその1人は日本で成功して、お金を稼いで、本国に戻る。そして自分にお金を出してくれた2人のうち、1人をまた日本に留学させるべく、もう1人とともにお金を出す。
これを3回繰り返せば3人とも日本に留学できることになる。
中国人は井戸を掘った人を忘れない
これもよく言われた言葉で、中国人は自分たちのために井戸を掘ってくれた恩人のことを忘れないという意味。つまり自分たちのために苦労して事をなしてくれた恩人のことを決して忘れず、いつの日か必ず恩返しをするという意味だ。
日本と中国の外交では、かつて中国側がよく使っていた言葉。
日本は中国にODAでかなりのお金を出していた。つまり「井戸を掘ってきた」わけで、中国はその恩を決して忘れないと、中国の政治家はよくそういうことをどや顔で言っていた。
当然違いますよ。
と、私の澳門人の友人は言う。
「血を重んじる」のは本当で、古典的な中国の考え方。それは日本で血族を重んじる習慣と似たようなものだが、中国の場合は、日本より融通が利かないと言うことだろう。中国においては、婿養子制度はあり得ない。また嫁はどこまでも血のつながらない存在としてはっきりさせるというのも本当。だったら日本みたいに姓を変える方が人間的な扱いではないのか(日本で嫁に行き、姓を夫側に変えると言うことは、血統に関係なくその一族の一員になることだから)ときいたら、「嫌です」と言われた。やっぱり姓は変わらない方がいいそうだ。
中国は日本以上の男尊女卑社会だったそうで(あんなに中国人女性は強いのに)日本の女性の方が、結婚後にずっと自由に振る舞えるという。かかあ天下に象徴されるように、日本の旧来型の結婚生活では、実は女性が主導権を握ることが多い。(今でもそうかもしれないが)しかし中国では、結婚後は、男性がすべての決定権を握ることが意外と多いそうだ。
中国が日本より個人主義なのは本当らしいが、単純に、だから女性の地位が高いというわけでもなさそうだ。
「親友が2人いれば何でもできる」という言葉に関しては、「ああ、そういうこと言いますけどね」「でも嘘ですよ。」「日本だって赤の他人が留学のお金出してくれるなんてないでしょ。」
その通りだ。
「中国人がお金を出してくれるのは、そこに何かしらの利権があるからです。その人を日本に行かせれば確実に儲かると思うからですよ。何の思惑もなく、親友だからといってお金を出すなんてないです。日本だと善意であるかもしれませんが、中国ではありません。まあ、親がお金を出してくれるとかはありますけどね。」
全くその通りだ。日本でもおおむねそうだ。
その友人は日本に留学して、日本に住んでいるが、親からはお金をもらわず、自分で働いてお金を貯めて留学してきた。さらに、日本でも働きながら日本語学校に通い、日本語を身につけて大学に入った。
中国人が努力家で、バイタリティーがあるのは事実だ。
友人はここで、中国人は拝金主義であるという事を教えてくれた。
澳門人の友人が、自分も含めた大きなカテゴリーでの中国人を称して、「中国人は拝金主義です」と言い切ったときには、ちょっとした衝撃だった。日本的考え方では、拝金主義というのはいい意味ではない。だが友人は何の衒いもなくそう言い切った。
だがそれが真実だと言うことだろう。おそらく日本人が思うような悪い意味合いもそれほどなく、1つの現象として客観的にそう言ったのだと思う。
中国における価値観は、金を稼げるかどうかにかかっている。金が稼げる人間が尊敬され、人望を集める。逆に金が稼げない人間は見下される。清貧という言葉は概念として意味を持っていない。
日本では清貧が拝金よりも価値があると思われている。正しいことをするために、貧しさに甘んじることを尊敬を持って受け入れられるし、むしろ適当に貧しい方が好まれる(生活できないくらい極貧である必要はないが)金持ちだとそれだけでちょっと白い目で見られるので、お金持ちはお金がある事を主張しない。それが節度と思われているが、中国では金がある事を誇示しなければ意味がない。
そこに利があれば、投資するが、人を救うためでも、利もないのに金を出すという事は、中国では尊い行為ではない。
「井戸を掘った人」のことは忘れる。
それは現在の日中関係を見ればわかるだろう。
そこに利がなければ、井戸を掘ったことを思い出さない。いや、井戸を掘ってくれることは中国に利があるのだから喜ぶ。しかしそれを理由にして、利のない投資はしない。困っているから助けるのではない。助ければ利が入ってくると思うから助けるのである。
ただまあ、この論理は日本でも実行されている。
日本では、全く利を問わずに助けると言うことはあるんだろうが、それを称して「情けは人のためならず」という。人に情けをかけることは、巡り巡って自分のためになるのだから、情けをかけましょう、という日本のことわざだ。巡り巡っては、目に見えるわかりやすい利潤だけではない。またその利潤は、情けをかけた相手からもらえるものとは限らない。他人に情けをかける行為を繰り返すような人間は、周りの人間から信頼され、いずれ別の誰かに助けてもらうことが出来るというような意味だ。
こういうわかりにくい、先の長い利潤の話を、中国ではあまり理解されていないようだ。これは国情の違いが大きいだろう。日本は元々島という閉鎖されたところに限られた人たちが一緒に暮らしている。他人から眉をひそめられるような行為をしたら、みんなからそっぽを向かれ、社会生活が送れなくなる。しかし良い行為を行えば、自然と周りから受け入れられる。
しかし国土が広く、多民族国家で、国民が流動的に生活する中国では、自分がした善行を見ている人は、そのとき目の前にいた人だけで、将来その人たちが自分のそばにいて、自分を信頼してくれる可能性は少ない。将来は別の人と暮らしている。別の人は昔の自分の善行を知らない。
だから利益は、見える範囲で回収する。
拝金主義は究極の公平性
日本人にはわかりにくい拝金主義。金だけがすべて、お金持ちが正義という拝金主義だが、少し方向性を変えてみてみると、違う側面が見えてくる。
日本における清貧とか、尊い行為というのは、基準がない。私たち日本人は、日本人の親に日本で育てられるケースが多い。すると日本の価値観を日々の生活の中で教えられる。「空気を読む」「常識を重んじる」こうした事は、育つ間に自然にたたき込まれる。これが出来ないと日本社会では暮らせない。しかしこうした訓練を積まない外国人から見れば、日本における「尊い行為」の基準はよくわからない。大まかなところはわかっても、ディテールになるとほとんどわからない。
「情けは人のためならず」がどのようにして成立するのか。その感覚がよくわからない。
日本人だって本当にはわかってないかもしれないが、ただ、同調性圧力が高い日本社会では、日々どうやったら生き抜けるかは知っていて、そこに拝金主義がないことはわかっている。自分が困窮してしまう限度を見極めて、そうならない程度に、ゆとりを持って、人に無償の情けをかけておけば、それは社会の中ではポイントが稼げる。日本におけるこのポイントは、金ではないのだが、それは日本社会が金があっても廻るとは限らない社会だと言うことを意味している。
その辺の案配がわからない外国人には、何を基準にしたら日本社会に適応できるかわからない。
正直日本人の私のも、はっきりとその基準を示すのは難しい。
今まで生きていて、なんとなく空気で読んでいる、曖昧な基準だ。
ところが、拝金主義は違う。
基準はお金の額なので、すごくわかりやすい。法律を犯さない範囲で、お金をいかに稼ぐかだけなので、わかりやすい。そしてお金の額が、そのままその人間の価値になるのは、本当にわかりやすい。
ある意味、人種を問わず、年齢を問わず、誰にでもわかりやすい1つの基準だけで人を判断するのは、偏見だという見方もあるが、わかりやすいことに変わりはなく、わかりやすいことは、基準がぶれないと言うことでもある。
特定の人間が、自分の利益のために、基準をゆがめて暴利を稼ぐ事がない。目に見えるわかりやすい基準しかないからだ。
5千万稼ぐ人間より1億稼ぐ人間が尊敬される。
そこに理屈はない。目に見える結果だけで判断される。
これは究極の客観性であり、公平性といえないだろうか。
ただし、私にはついて行けないが。