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成年後見制度は使えない

  成年後見制度とは、何らかの理由で自らの財産や権利が、自分では守れない人に対して、後見人が代行して行うことが出来る制度である。
 しかし、今や成年後見制度は、実質使えない制度になっている。


成年後見制度とは


 最近よく言われているのは、認知症などで財産の管理が出来なくなった高齢者が、詐欺などに引っかかって財産を取られたりしないように、後見人がついて、代わりに財産の管理をするために、この成年後見制度を使うという方法だ。
 そのほかにも、成年後見制度で定められる後見人は、本人に医療などが必要になったとき、本人がそれを判断できない場合も、後見人が代行して決定することもある。
 
 成年後見制度の後見人にはいくつかの領域があり、どの領域について代行するかも定められる。以前裁判にもなったが、金銭面の後見人をつけたとしても、選挙は本人が後見人なしに行う、ということも出来る。選挙は財産管理とは関係ない権利なので、その能力があると認められれば、あくまで本人の意思に従って行うことができる。
 成年後見制度では、本人の能力に従って、どこまでを後見人にゆだねるかを定めることができるようになっている。

成年後見制度の問題点

 成年後見制度の問題点はいくつかある
1.申請に手間と時間がかかる。
2.一度申請したら、被後見人(後見人に後見される人)が死ぬまでやめる    
 ことができない。
3.後見人をだれにするかは、裁判所が決めることなので、勝手に選ぶこと 
 はできない。
4.後見人が決まったら、後見されると定められた行為は、後見人の許可な
 くして全くできなくなる。
5.後見人には報酬が発生し、それは被後見人の資産から支払われる。
6.後見人にはできない行為があり、それに該当する行為は、まったくでき    
 なくなるか、新たに裁判所の許可を取らなければならなくなる。

 

すべてに手間と時間、そしてお金がかかる制度

 成年後見制度を使うには、まず家庭裁判所に申請することが必要だ。そのために申請書を書き、必要な書類を添付する。もちろん一般人でもできないことはないが、多くの人にとっては、煩雑で、時間のかかる行為である。そのため、申請のために弁護士を雇う必要が生じることもあり得る。
 さらに家庭裁判所から審議を受ける必要がある。裁判所に出向き、裁判官からの質問に答える。
 その後、裁判所は後見人をつけるかどうかを決定し、誰を後見人にするかを決める。

 問題は誰が後見人に指定されるか、である。
 どの人が後見人にふさわしいかは裁判所が決めることである。しかし、例えば東京などでは、後見人はまず弁護士が定められる。家族が定められるケースは希で、それでも特別な介護や医療が必要になる場合、家族が後見人に指定される場合もあるが、その時には必ず監督人がつく。この監督人は弁護士がなる場合がほとんどだ。

 弁護士が後見人になるのは、身内が後見人になって、本人の財産を詐取するような事件が増えたための対策なのだが、実際には後見人になった弁護士が被後見人の財産を詐取した例もある。
 またどの弁護士が指定されるかは裁判所が決めるので、家族や本人の意見通りには行かない。一面識もない、どういう人かもわからない弁護士が後見人になるケースもあり得る。
 さらに後見人は一度決めたら、原則的に変更は出来ない。(後見人が、明らかに財産を詐取するなど犯罪を起こせば、他の弁護士に変更することは出来るだろうが、少々のことで変更することは出来ない。)
 それに、成年後見制度は、一度定まったら、やめることが出来ない。定められた後見人が気に入らないから「やっぱりやめる」は出来ないのである。
 そして、後見は本人が死ぬまで続く。

 これで困ることが3つある。
 

1.担当した弁護士があまり熱心にはたらいてくれない、はたらけない場合がある


 介護には日常的にお金が必要になるが、それを引き出すたびに、いちいち後見人の許可が必要になる。突然の入院でも、医療が必要になっても、後見人の許可がなければお金を引き出せない。このときフットワーク軽くやってくれる弁護士ならいいが、そうでないとすべての行動がもたつくことになる。実際に介護すると、日々状況が動き、先へ先へ見越して次の展開のための準備が必要なときがある。私自身、介護の時は本人の口座を預かったが、その理由は、作業にお金の後ろ盾が必要だからだったからだ。迅速にお金を振り込んだり引き出したり出来ないと、次の作業に移れない。
 弁護士はそもそも忙しく、仕事が立て込んでいる場合が多い。さらに、あまりこの手の仕事に関心がなく、経験もない弁護士となれば、毎日の介護に汲々としている家族から見ると、「レスポンスが遅い」と感じることが増えるのではないだろうか。
 自分で介護していて思ったことだが、自分で決めて自分で行動するのはいいが、周りの意見をいちいち聞いて、集約して行うのは、ストレスがたまる行為だった。現状をきちんと把握している人が相手ならいいが、そうでない親族を相手にするときは、いらいらすることが多かった。
 手伝いがほしいと思うことはあるが、本当にほしいのは、黙って従ってくれる手伝いであって、意見したり反対したりする手伝いではなかった。もしくはエキスパートの助言だった。完全に独善的だとわかっているが、それが正直なところだった。
 そう考えると、レスポンスの遅い後見人は、最悪と言うことになる。

  

2.後見人制度には、報酬が発生する

 この報酬は裁判所が決めるため変更は出来ない。厚生年金をもらっているような人なら、月に2~3万円になるらしいが、年金生活者で月に2~3万円の支出は、相当な負担である。これが生きている間ずっと続く。
 後見人が何もしなくても、この報酬は毎月発生する。
 実際、後見人が必要となるのは、任命された当時、生活を整えるための様々な手続きの時、もしくは大きな医療的な措置が発生するとき、また、亡くなった時など、節目節目だけであるが、報酬はそれに関係なく、毎月支払われる。節目でないときの作業とすれば、貯金通帳の記帳ぐらいだそうだが、それでも2~3万円の報酬が生じる。
 さらに家を売るなどの大きな仕事の時には、別途報酬が加算される。

 それでも、この報酬を全面否定するわけではない。
 実は報酬は弁護士に限らず、一般人が後見人になった場合でも支払われる。この場合、例えば専業主婦が介護を担った場合、介護のために病院や高齢者の家に通い、施設に通いすれば、交通費がかかり、活動時間によっては昼食などを外で済まさなければならない。収入がない主婦にとって、この出費は決して軽くない。主婦に限らず、介護のための時間を得るために仕事を休んだりやめたりする場合は、それで収入が減る。そうなると交通費や食事代はバカにならない。
 仕事をやめた場合の損失補填まで報酬に加算するのは違うと思うのだが、交通費や食事代の実費は払われてもいいと思う。ただし、実費である。
 仕事をしない月も報酬が生じるのは、現実的ではないと思う。
 
 さらに、仕事しなくてもお金だけ発生するその制度に対して、金目当てに引き受けたがる弁護士が存在すると私は思っている。こうした仕事を10件や20件引き受ければ20万円から40万円ほどの固定給になる。
 そもそも介護事態は、毎日がかなりの仕事量になるが、後見人は実際に介護を行うわけではないし、後見人の仕事は、手を抜こうとすればいくらでも抜ける余地がある。介護は当事者にとっては重労働だが、それを知っているのは、重労働をこなしている現場の人だけである。ろくな経験もなく、冷めた目で見ているだけの他人には、介護などさしたる仕事ではないという判断をする者が多い。その結果として、後見人がこの仕事を軽んじる可能性はある。さらに、実情を知っていたとしても、あえて目をつぶって、仕事量を減らすことも可能だ。
 制度的にそれが可能であることは、実際にもこの問題が大きいことを示している。私が聞いた限りでも、後見人をつけて困ってしまった当事者が少なくない。病院や医療施設などで相談すると、必ずこの話になる。
 弁護士自身の無知か、意図的かにかかわらず、この現状は、当事者である高齢者や家族には本当に迷惑である。

 実費しか報酬がなければ、金目当ての弁護士は引き受けない。そもそも弁護士が引き受ける仕事ではなくなる。しかし後見人制度の本質を考えると、弁護士が担う仕事なんだろうかという気がする。本当に財産があってそれを守りたいなら、弁護士を個人的に雇うことはできる。(もっと高い報酬を支払うことになるが)それができない庶民にとって、成年後見人制度は、安心して使える制度になっていない。 

3.成年後見制度の法律そのものが現実に即していない

 例えば財産管理の場合、成年後見制度では、あくまで財産の保全を目的としている。つまり使わないことを旨としている。
 ところが多くの場合、介護をするために必要になるのは、本人の財産を有効に使うことである。私自身、先行きの短い高齢者に対して、過度な貯金を残すことは意味がないと思っていた。極端なことを言えば、本人が存命中に、過不足なく、預貯金を使い切る方が良いと思っていた。その分、本人の生活が豊かで快適になれば良い。つまり、財産をいかにうまく利用するかが一番気になるところだった。

 だがお金の出入りは、すべて後見人の許可がいる。

 必要な治療があるが、そのために○○円のお金が必要だとしても、後見人がその必要性を認めなければお金はだせない。
 医療的な治療なら、後見人に医師から話してもらうということもあるだろうが、もっと微妙な問題もある。
 例えば、家族が、本人をどこかに旅行に連れて行きたいとする。まだ体の動くウチに、思い出を作ってもらいたいと考えたとする。でも、旅行は本人の生活の維持に不可欠ではないし、本人の希望が確認がしづらいケースなら、後見人はこの出費を認めないかもしれない。
 また、生活上、家族が本人のために日々行っているような行動にお金が必要でも、それは本人の行動に必要なお金ではないから、出費を認めないケースもある。本人の生活を支えるための作業だとしても、どこまでを必要経費として認めるかは非常に難しい。介護保険で頼むヘルパー費用などははっきりしているし、作業の範囲も特定されるが、家族が行う介護は多岐にわたっており、そのすべてが認められる保証はない。
 さらに割と多いケースでは、本人を介護するために離職して、同居している家族がいたとして、(もしくは専業主婦で、ずっと一緒に暮らしながら介護していた人がいたとして)その介護人の生活費を、本人の年金からまかない、本人の家に住んでいたとする。
 同居家族の生活費は、後見人から認められないケースが多いようだ。高齢者自身の生活費と関係ないからだ。だがそうなると、介護人は自分の生活費を自分で稼ぐ必要があり、仕事に戻る必要が出る。結果として十分な介護はできなくなるかもしれないし、そもそも同居の介護事態できなくなるかもしれない。
 これによって本人は施設に入ることになるかもしれない。施設に入れず、家庭で介護したいから取った措置が、後見人がついたことで果たされなくなるかもしれない。

 しかし施設に入るとしても、そのお金が本人の財産から出すことを認められるかどうかも微妙である。施設に入らなくても生活できると後見人が考えれば、お金はでない。
 すると、同居、もしくは通いで、仕事を持った家族が高齢者を介護することになる。それがどれだけ大変かは、介護された人ならわかるだろう。それが家族にとって多大な負担になるために、何とか方法を考えるわけだが、後見人をつけたために、その八方塞がりになる可能性がある。

 実際に介護していればわかると思うが、生活できるか出来ないか、という、0か100で介護は決まらない。その間にグラデーションのように様々な状態が存在する。人間生きていくだけなら寝たきりで、水だけ飲んで、汚物にまみれていても生きてはいる。しかしそれでは人間として生きていることになるのだろうか。適正な介護を受け、本人の不安をなるべく解消して、楽しい気分で余生を送ってもらうために周りの人間が苦慮しているわけで、その微妙な配慮には、時としてお金がかかる。本人に年金等の収入があるなら、そこから支出を求めるのは当然と思うが、法律は財産の保全が目的なので、使わない方に、使わない方に結論を求めようとしてしまう。
 まるで、本人がのたれ死んでも、財産が残ればそれで正解といっているようだ。
 また、本人名義で不動産売買などを仕事として行っていた場合、その継続は出来ない。本人名義の土地(財産)の売却は、相当の理由がないと認められない。もし業務としてそのようなことを行っているなら、後見制度を申請する前にその辺の整理も必要だ。
 特に介護のために施設に入るとして、そのために自宅を売却することには裁判所の許可が別途必要になる。後見人の許可では済まない。本人が住んでいる自宅は、基本的に売れないのである。
 例えば本人の家を売って、子供の家に同居して介護を行うなどという計画を立てても、裁判所の許可が下りるかどうかは、やってみないとわからない。

実際にどう見られているか

 私は親族が成年後見制度が必要なのではないかと言う事態に至り、弁護士に相談したところ、上記のような理由で、なんとか後見制度を使わずにいけるならそうする方がいいとアドバイスを受けた。もしまだ多少でも認知できる余地があるなら、今のうちに必要な措置を全部執っておくべきだと。
 その弁護士は実際に後見人に指定されたことがあるそうで、その相手は、身寄りのない、認知症が進んだ、寝たきりの高齢者だったので、家を売って施設に入るしかなく、本人が判断できないので、後見人をつける以外に方法がなかったそうなのだが、施設に入ってしまえば仕事がなくなり、毎月貯金通帳の記帳ぐらいしかやることがなく、それなのに3万円ほどの収入が毎月支払われたそうだ。高齢者にとっては安くない金額だから、いらないと言いたいが、裁判所命令なので拒否できないという。
 その弁護士は自らも介護をしているような人で、そもそも熱心な弁護士だが、その弁護士をして、利用することを勧めてくれない制度である。

 私が介護していた 高齢者が入院し、その後施設探しをするとき、相談に乗ってくれた病院の相談員と話したときも、同じことを言われた。担当した患者の中には、後見制度を使った人もいるが、ともかく使いにくい制度で、とても困ったという苦情が多いという。

禁治産者とは違う

 成年後見制度は、かつてあった、禁治産者、準禁治産者という制度が廃止されたあとに、その代わりとして作られた側面が大きい。禁治産者、準禁治産者に指定されると、自らの財産を使えなくなる制度で、生活は家族によって支えられる一方、商業的契約などは後見人の許可なくしては全く出来ないことになる。
 さらに禁治産者とか、準禁治産者は、戸籍に記載される。

 実際の運用を見る限り、本人の財産を本人のために守る制度というよりは、家としての財産を、本人が散財しないための制度という方が近いかもしれない。戸籍に記載されるのも人権的に問題視されていた。

 こうした問題点を鑑み、あくまでも本人の権利を守るためということを重視して作られたのが成年後見制度であった。ちなみに成年後見制度によって後見人がついても、そのことは戸籍に記載されない。
 しかし現実は、この成年後見制度も、本人のためになっているのかどうか疑問な制度になってしまっている。

あるコメンテーターの発言に思うこと

 TBSの昼のニュースバラエティーに出ている弁護士の発言を聞いたとき、あれっと思ったことがある。
 旧統一教会の問題を扱ったコーナーで、2世信者の問題が取り上げられていた。彼らは子供の頃から親が献金を繰り返し、生活費も滞る状況に置かれ、自分がバイトで稼いだ金銭まで親に取り上げられ、献金に使われているという話があった。
 こうした無軌道な献金による被害を止めようとするが、これを止めるには献金している信者その人の財産を左右する法律を作る必要がある。しかし個人の財産権に抵触する可能性がある。
 この状況を踏まえた上での新しい立法が望まれているわけだが、コメンテーターの弁護士が、「成年後見制度などを利用して、後見人をつけることで解決するのではないか」という意見を述べた。
 彼が言わんとする内容はわかるが、それはかつての禁治産者のような扱いであれば可能であるが、成年後見制度の場合、あまりうまくいかないように思う。
 成年後見制度の場合、後見人なくしてお金を使うことが出来なくなるので、財産を献金で失うことはなくなるが、本来、そのお金で子供を進学させたり、食費や医療費に使おうとするわけで、そうした日々のお金について、いちいち後見人にお伺いを立てないといけなくなる。
 教会にお金を取られて困窮することは避けられても、今度はフットワークが重い弁護士によって、または硬直的な法律によって、子供達に必要なお金が得られないという本末転倒な状況が生まれかねない。子供が進学のための勉強がしたいと言っても、別に義務教育以上の教育を受ける義務はないので、必要なしと判断されれば進学のためのお金は出ない。進学は認められるとしても、偏差値の高い学校を受けたいので、塾に行きたいと言って、それが認められるだろうか。才能を伸ばすための特別な教育を受けたいと言っても、将来その方向に本当に進めるかどうかはわからない。しかしまともな親ならば、そこで子供のためにいろいろ考えるわけだが、法律にそのような柔軟性があるだろうか。
 もっと小さい日々のことで、子供がほしいと思ったおもちゃを買ってもらえるだろうか。新しい服を何着買ってもらえるのだろうか。修学旅行は認められるのだろうか。
 常識というのは曖昧な基準で、法律はどこまで認めるのだろうか。財産の保全を旨とした成年後見制度では、生きるに必要な最低限の環境と義務教育以外のお金を出してくれるのだろうか。
 現在認知症の高齢者において出てきている問題を見る限り、成年後見制度は、2世信者の問題には、解決にならないように思う。

 

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