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コロナ禍の命の選別

 大阪、神戸でクラスターの起きた老人施設に医療集団を送っているNPO法人の代表が、テレビで現状を語っていた。

 医療逼迫になっている当地区において、老人介護施設に入所している、基礎疾患のある高齢者がコロナに罹患し、悪化して重症化しても、病院には入れないので、施設内で出来ることをして、それでも無理なら看取りをしてほしいと言われているという。

 この現状、命の選別が行われている現状を広く知ってもらいたいという発言だった。医療逼迫がなければ、コロナに罹患した高齢者は入院して、必要な医療を受けることが出来る。例えば、そのNPOの医師は、80代のコロナ患者に対し、水を飲ませてあげたところ、「ありがとう、美味しかったわ」と答えたという。この程度のコミュニケーションのとれる患者であったが、その後悪化し、他界したという。

 命の選別とは、医療が必要となる人たちの中で、助かる人を優先して助け、助かる見込みの少ない人を後回しにすると言うことだ。当然高齢者は、救命率が低いと見なされ、後回しにされることになる。(後回しと言っても、亡くなるまで医療の助けはないというのが現状らしいが)

 なお、この報道は最後に、施設内でなくなった入所者の娘にインタビューしている。十分治療なく亡くなった母親に対する無念と、どうしてそうなったかを施設に質問しているが、答えがないという報道だった。

 このことについて私なりに補足するなら、家族の希望のように、十分な医療を行うために施設が出来たことは何もないだろうと言うことだ。施設としても、コロナ患者は、施設内ではなく病院に送りたかっただろうし、実際一部の患者は入院できていた。しかし他の患者は、施設内で面倒見るように病院から拒絶されている。

 理由は医療逼迫であり、現状ではどうしようもない状態だった。

 この現状を打破するためには、行政に何かしらの措置を執ってもらうしかなく、しかし方法は、患者そのもの数を減らすことしか残っていないので、施設がどうこうできる状況ではない。

 ただ、もし家族が自宅で介護していれば、少なくとも看取りは出来たかもしれない。施設内でなくなってしまうと、死に際に顔を見ることすら出来ず、満足な別れも出来ないだろう。

 しかしその代わり、介護する家族は、介護の苦労に重ねて、コロナ感染にさらされる。感染対策を施し、もしかしたら変異株の感染の危険にさらされつつ、施設よりさらに不十分な環境の過程での介護を余儀なくされ、結果として家族にも感染する恐れがある。

 感染の恐れを回避できたという意味では、施設でなくなったことに意味はあった。これが現実ではないだろうか。

 家族の忸怩たる思いはよくわかるし、怒りの矛先が施設に向くのももっともだと思うが、現状では八方ふさがりなのである。

命の選別の本質

 コロナが流行りだした初期の頃、スウェーデンでは、高齢者の患者をICUに入れないという措置が執られ、各国から非難を受けた。当然日本でも非難する人が多かった。この措置は、コロナ禍に決まったことではなく、スウェーデンでは、以前からいくつかの項目を定め、救命の確率の低い人は、限られたICUの資源を使わないという決まりを作っており、国民的にもコンセンサスがとれていたので、コロナ禍でも同じ措置を執ったに過ぎないという。  

 この決まりは、高齢者を医療から遠ざけることを目的とはしておらず、定めた数の疾患を持ち、そもそも罹患したら救命の確率の低い人を定めて適用しようとしているのだが、高齢者は多くが基礎疾患を持っており、救命率は下がる事がわかっているので、結果として高齢者をICUから遠ざける決まりとなっている。

 私はスウェーデンのこの話を聞いたとき、実は日本よりましかもしれないと思っていた。スウェーデンと同じ事は、日本でも以前から起こっているのだが、それは巧妙に隠されてきた。高齢者の介護をしてみるとわかってくるのだが、高齢者の介護の実情は、必ずしも国民全体の知るところではないので、隠されている現実が多い。

 それともう一つは、日本の文化的な面だ。日本では自己犠牲は崇高な行いとされる。さらに自己犠牲は、誰にも言われないうちに自ら進んで行うものであり、周りの空気を読んで行うものだとされている向きがある。

 コロナ禍でもし、コロナに罹患したらどうしたいかと高齢者に尋ねると、少なからぬ人が「人工呼吸器をつける事になるなら、それはしないでいい」というかもしれない。しかし、それが本心から出た言葉かどうか、知るよしもない。例えば、それを尋ねる医療者の心の内をおもんばかって、また、介護をするであろうと家族の思いを察して、その答えが出たのではないとは言い切れない。

 私の父は、痴呆症の初期の段階でなくなったが、このとき介護に従事していたヘルパーや看護婦が口をそろえていったことは、「このまま症状が進めば、家族の方に迷惑をかけると思って、急いで逝かれたのですよ」であった。

 これは家族への慰めの言葉である事は確かなのだが、しかし考えてみればひどい話でもある。家族に迷惑をかけないために、さっさと死んでしまうのが美徳、といっているようなものである。

 その後、残された母も高齢であったので、将来の介護方針のようなものを医師や看護婦と話したことがあった。(当時は母は高齢と言うだけで、特に病気はなかったが、高齢者の介護に携わるスタッフは、介護方針がどの方向を向くか知って起きたらしい)

 このとき打診されたのは、最後まで家で過ごすなら、緩和ケアとして、緊急時には契約した医師と看護婦を呼び、救急車を呼ばないで看取りするという方法だった。在宅看取りのセオリーである。

 当時の我が家の希望はフルサポートで、つまり病気になったら救急車を呼んで、病院に入院して、出来るだけの治療をするという方法だが、このフルサポートが老人にとって無意味である事を暗に説教された記憶がある。

 実際に我が家は、母を在宅看取りしたので、今となれば、医師や看護婦の意見の意味は理解している。また看取りの当時は、それが正しいと思っていた。

 しかしこの正しいはずの「在宅看取りのおけるセオリー」が、今私の内心で揺らいでいる。

 在宅看取りとは、高齢者自身、そして家族の希望が一番と考えられた方法ではある。特に高齢者は、最後まで自宅で過ごしたいという希望を持つ人が多いのは確かだ。結果として在宅看取りとなるが、では家族もそう思っているかというと、家族とは、このとき介護をする当事者になるので、必ずしも賛成の人ばかりではないだろう。

 医師と看護婦においては、高齢者の希望を叶えるため、また生活のクオリティーを考えたとき、在宅での看取りが良いのではないかという判断があり、このためのサポートとしての役割を果たそうとする、崇高な使命感がある。

 が同時に、この在宅看取りとは、社会的な目的として、限られた資源である救急救命のシステムを、老人によって無駄遣いしたくないという現実もある。特に看取りを考えなければならないような状況にある高齢者の場合、救急救命で助けたところで、そもそも余命は短い。長く生きることのない高齢者を、限られた資源で助けるよりは、より長く生きる可能性のある、若い人を助けた方が理にかなっているという考えだ。

 これは当時母のために頼んでいた訪問医療の医師から聞いたことで、彼は自分たちの仕事は、高齢者が最後まで望んでいる自宅で生活できるための手助けをするためであるが、もう一つの目的はそこにあると言っていた。

 これは現実であり、コロナ禍においては寄り切実な現実となっている。災害時のトリアージと同じである。

 スウェーデンの現実は、ちょうどこれと同じ事を、明文化し、国民のコンセンサスの上で行っているに過ぎない。もっとも国民のコンセンサスが本当にとれていたかどうかわからない。スウェーデンの国民も、コロナ禍において、本当に身につまされてこのコンセンサスに接したのではないだろうか。本当のコンセンサスがとれるかどうかはこれから先だ。

 だが、逆を言えば、現在のコロナ禍のように、生命の危機に逼迫したときには、多くの人がこのコンセンサスを理解して賛成してしまうかもしれない。なぜなら、若い人であれば自分が助かる道が増えるからだ。

 逆に、平時においては、このコンセンサスの現実性を正確に理解せず、闇雲に反対する人が多いだろう。コロナ以前の日本である。他人を選別し、死に至らしめることの後ろめたさであるし、倫理観でもある。

 スウェーデンと日本は、国民においてはそれほど大きな違いはないかもしれない。正確な知識と情報を元にコンセンサスを取ろうとしたら、意外と両国の国民は、賛成するにしても反対するにしても、同じような判断をするかもしれない。

 ただ、両国の一番の違いは政府の姿勢である。

 巧妙に現実を隠し、裏でこそこそ操って、責任逃れしながら行う日本と、正々堂々と、コンセンサスを表明して実行しているスウェーデンの違いだ。

 

 先の大阪神戸で活動するNPOの医師の話は、痛ましく、現在我々が出来ることは、ともかくコロナ感染者を作らないこと、自らが罹患しないこと、他人に罹患させないことにつきる。

 ただ、これはコロナ禍の一過性のことではないと言うことは確かだ。コロナが終わっても、高齢者と医療の関係は変わらない。

 もう一つ、本当に命の選別が必要となったとき、高齢者と、高齢者出ない人たちの心の内で、何を選別すべきと思うか。自らの胸の内に問うた方がいいと思う。これは避けられない問題だ。

 私は、コロナ以前は、高齢者が安らかに、憂いなく最後を迎えるなら、そのために死期を早めたとしても(もちろん合法的にだが)良いのではないかと考えていた。

 しかし、自ら医療とのアクセスを拒否するようなこのやり方が、本当に正しかったのか、直る可能性が低いからといって、緩和ケアのみをよしとして、積極治療を行わないことは、何を意味するのか。

 もう一度考えたいと思っている。

 「高齢者自身から見て、苦しく、効果の薄い治療は受けなくてもいい。」

 「逆に楽に死ねるなら、緩和ケアを選んだ方がいい。」

とされてきた考えは、すなわち、直らない可能性の高い人は、治療を受けないで、その分の医療資源を、より回復可能性の高い患者に廻す方が正しいという考えに直結していないか。そしてそれは何を意味しているのか。

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