見出し画像

南へ降りてゆくと

下田へブルースのライブを聴きに行くことになった。壺中天の本と珈琲の舘野さんと、3年前に伊豆へ移住してきた方との3人で車に乗り合わせて向かう。私は熱海方面よりも下田方面の方が好きで、よく遊びに行っている。熱海から南へ下ると伊豆独特の空気が漂い始めるのだけど、伊豆高原からさらに南へ下ると、空気が丸みを帯びてまろやかになり、さらに南国の雰囲気が強くなる。熱海に移住したとある人は物足りなさを感じて、さらに南の伊豆稲取へ移住したそうだ。確かに熱海は新幹線が通っていて高いビルも多いため、まだまだ伊豆っぽくはない。何度も都会との往復をしていると伊東も遠く感じなくなってきたし、麻痺していった人たちはどんどん南へ下っていくのだろう。

私はとにかく海を見るのが好きなため、下田へ向かう海岸沿いの道はずっと楽しい。年内にはバイクの免許を取ることになっている。海岸線を走っている自分をイメージしては胸が躍った。山を切り崩さず、できるだけ自然をそのままに残してある伊豆の景気が好きだ。私が今住んでいる場所もそうだし、共に生きている感じがする。だけど、「自然と共に生きることはできない。人間はお邪魔させてもらっている存在で、自然に対してはひれ伏すことしかできない。」という車の中での会話にハッとさせられた。共存できているという考え自体も、人間のただのおごりなのだろう。日本の各地でも起きているけれど、海外では過去に例を見ない大災害が起き続けている。地球がほんの少し本気を出せば、人間なんて一瞬で滅ぶ。だから自然に生かされていることを理解した上で、伊豆という自然により近い場所を選んで住んでいる人たちはとてもかっこよく見える。

死に方についてはよく考える。考えたところで選べないのだけど、嫌だと思う死に方をある程度は避けておいたり、起きても仕方なさそうな死に方は事前に受け入れておいたりはできるだろう。コンクリートマンションの下敷きは嫌だなとか、糖尿病になっても最期までジュースを飲みたがるのは嫌だなとか、海の側で暮らして津波に襲われるのは仕方がないなとか、バイク事故で海岸の崖に突っ込んでしまうのは仕方がないなとか。どう生きていくかも大事だけど、どう死なないかも同じくらい大事に考えておきたい。


下田へ着き、ライブの前に腹ごしらえを済ませておこうとなり、レストランでパスタを注文。でも、注文した後にどう頑張っても開演時間までに食べ切れなさそうなことが発覚。この無計画でマイペースな感じも伊豆ならではか?(笑)自分史上一番のスピードってくらいの速さでパスタを平らげ、満腹な腹を駆け足で揺らしながら、少し遅れ気味でライブ会場へ。70歳を越えるボーカルがお酒を飲みながら、しゃがれた声で歌っていた。それはもはや上手い下手の次元ではなく、限られた命を燃やすような、儚くも力強い美しさと共に、少し不恰好な人間らしさが滲み出て、さらに味わい深さを増したようだった。音楽を続けたものだけが到達できる境地。自分は40年後にあの場所へ辿り着けるだろうか。ゲストのハーモニカも同じく70歳越えの人で、ハーモニカで鳥肌が立ち感動したのは初めてだった。そもそも演奏がすごいのはあるけれど、年を重ねなければ出ない音がある。それは単なる音階ではなく、その人の生き様を走馬灯のように見せられているような気分にさせられる。私はまだ自分がやっていきたい音楽が分からない。だけど今回そのヒントをもらった気がする。40年後にあの場所へ辿り着けるくらいの感じで見つけていこう。

帰りの車窓から見える闇夜に包まれた海は、吸い込まれそうで少し恐ろしい。どこまでも遠く、深く続いていく、先の見えなさに不安さを覚えるのだろう。それはまるで人生のよう。でも最近はあまり不安にならなくなった。どれだけ想像しても見えないし、明日の自然の機嫌も分からないから、結局は今ある環境でやれることをやるしかない。今という時間の大切さを映し出してくれるこの場所が好きだ。暗闇の海は見えずとも、静かに今を刻んでいた。

この記事が参加している募集

この街がすき

頂いたサポートは活動のために大切に使わせていただきます。そしてまた新しい何かをお届けします!