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降っていく

手すりを掴みながら、緩やかな階段を一段一段降っている。いつまで降るのだろうか。今までは急降下してしまい、何が起きたのか分からないまま地面に叩きつけられて大きなダメージを負っていたけれど、今回は落ちるのを理解しているから自ら下へ向かってみている。ここで無理やり元気に振る舞おうとしたり、普段と同じことをやろうとすると、余計に下へ引っ張られる。争うのではなく、受け入れていくイメージだ。躁でやりすぎた分、身体がダメージを受けているのだから休むのは当然で、どんな人でも疲れたら必ず休んでいる。躁鬱人は一時期疲れを感じなくなって休むのを忘れてしまうから、身体がアラームを鳴らして教えてくれるようになっているのだろう。

私は今回の鬱状態になってから激しく落ち込んだり、希死念慮に苛まれたりはしていない。身体が重たくて横になっている時間が増えたり、何かしようとしたりすると10倍時間がかかったり、胸が苦しくて寝づらかったりなど、身体に起きている異変を感情ではなく、ただの現象として捉えている。その身体の現象に対して、心では素直に答えるようにしている。落ち込みや希死念慮といった感情的なものは、この身体の現象に争おうとした時に生まれるものではないかと思う。せっかく身体がアラームを鳴らして教えてくれているにも関わらず、いつも通りにできない自分はなんてダメなやつなんだ…と心が勝手に解釈した瞬間に、感情の負のループが始まって抜け出せなくなっていく。身体の不調は人体の構造としては何の矛盾もなく、むしろ正しく機能してくれている証拠なのだから、ありがたく休むべきなのだろう。

躁鬱の鬱は上がりすぎた反動で起きているものであって、心が疲れてなってしまう鬱病とは、そもそも鬱になる理由が違う。だからこそ躁鬱人は鬱になる理由が分からず、突然不調を迎える自分はダメなやつだと思いやすい。いじめにあったからみたいに、ハッキリとした理由があればもっと素直に休めるのかもしれない。躁鬱人は鬱を単たる人体構造上の現象として、便秘のように、生理のようにドライに捉えられるようになれれば、楽に過ごせるような気がしている。

でも辛いんだけど…、と思う自分もいる。そんな時は、躁の自分がいなくなってしまうのを想像してみている。人によっては暴走しやがってとか、散財しやがってと思うのだろう。だけど私は、躁の自分もなんだかんだ好きなのだ。自己中だし、後始末も大変だけれど、やっぱり躁のおかげでできたことは山ほどあるし、出会えた人たちもたくさんいる。もし自分には躁がなくて、これまでやってきたことはできず、誰とも出会えなかったとしたらと考えると、それは嫌だなあと思う。代償として鬱の自分がやってくるとしても、それ以上に躁の自分ができていることは大きい。ありがとう躁森愛。でも暴走はほどほどにしてくれ(笑)

というわけでヤツが上がった分だけ、私は今降っている。転げ落ちないように、一段一段ゆっくりと。

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