見出し画像

私は私になった

最近私は私になったと感じている。これだけだと意味不明だろう。私はずっと私ではない何かになろうとしていた。それは多分、理想の自分みたいなもので、近づこうと努力して、磨いて、戦って、負けず嫌いだから悔しさもバネにしたりして、なりたかった自分になれた時もある。でもなぜかコレじゃない感があった。行きたかった喫茶店に行けたのに、肝心のコーヒーの味は好みじゃなかったみたいな感じ。嘘をついていたわけではない。本当になりたいと思っていたのだけど、それを目指すばかりで私は私の声を聞けなくなっていた。好みのコーヒーの味はもうどうでもよくなっていて、インスタに映える喫茶店へ行くことだけが目的になってしまうみたいに。

私の声は随分と遠くの方で聞こえていて、5Gの電波でも届かないくらい聞こえが悪いもんだから、半年以上かけて会いに行った。将来のことばかり考えて、置き去りにしてしまってごめんと謝った。自分の声を聞くというのは、子供の面倒を見るのに似ている。子供は我慢したり、気を使ったりはしない。思ったこと、感じたことをそのまま体現する。でも大人になるにつれて制御方法を覚えたせいで、いつしか思ったことを口にしなくなり、感じたことを気のせいだと知らんフリするようになる。そんなことを子供にさせようとすれば暴れたり、不機嫌になってしまうだろう。大事な打ち合わせ中にもう飽きたーと言ってしまうのは流石にやりすぎだけど、私たちは自分が思っている以上に今を忠実に生きていない。続けていることを途中ではやめられないからと興味を遮断したり、もしかしたら利益になるかもしれないとやりたくないことをやっている。それは将来のことを考えれば考えるほどエスカレートしていき、どんどん時間軸が今から離れてしまって、自分の声が遠く聞こえなくなっていく。聞こえなくなると、綺麗な夕焼け色に染まった空よりも明日の予定の方が気になるし、作ることが好きな気持ちよりも認めてもらうための作品を作るようになる。現在地にいる自分の声を聞くと言うのは、置き去りにした子供の自分を迎えに行くような感じかもしれない。

私が私になってからは、好きなものがすぐに分かるようになった。波のように争わずにいると、自然と心地いい場所へ流れ着ける。私が海の側にいたいと思ったのは、すぐに「今」という時間に引き戻してくれるからかもしれない。波はただただ今を刻み続けていて、私が遠い浜辺に打ち寄せられてしまっていても、海を頼りに戻って来られる。過去の波を打ち消しながら、時に静かに、時に荒ぶり、均等でないリズムを刻んで変幻自在に形を変えて行くけれど、決して急がずに、ありのままの姿を映し出す。海は私が私でいるために、色んなことを教えてくれる。

そんな風にしたら、わがままな人になってしまうのではないかと思うかもしれない。そう、私はわがままかもしれない。でも自分にわがままになると、不思議とああなりたいこうしたいがなくなって、何でもよくなる。矛盾しているように聞こえるかもしれないけれど、むしろ周囲で起こることに柔軟になれるのだ。海が形を変えながら浜辺に打ち寄せられる余裕があるのは、巨大な体積が常に満たされているからであって、コップにスカスカの状態で入っている水は、一度溢れてしまったら戻って来られない。自分を海のように満たしてあげれば、多少の揺れがあってもまたすぐに戻って来られるのだと知った。

こんなに文章を書くようになったのも、作りたい気持ちにブレーキをかけなくなったのも、私が私になったからなのだろう。これまで何をしてきたかという過去の経歴も気にしなくなって、プロフィールが曖昧な表現者になり、新しく出会う人に対して自分が何者なのかを説明しなくなった。常に形を変えていく私にはもう必要ない。ただの私になった。そして今日もありのままの今の自分の言葉を、ここへ書き連ねている。

この記事が参加している募集

#私は私のここがすき

15,743件

#今こんな気分

76,520件

頂いたサポートは活動のために大切に使わせていただきます。そしてまた新しい何かをお届けします!