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海について

海が好きだ。見ているだけで私は生きているんだなと思える。山は動かないし、空は雲が流れないと動きが見えないけど、海は鼓動のように絶えず波打っていて、時には静かに、時には荒ぶり、それはまるで人間の感情のようで自分と重ねているのかもしれない。共に生きている瞬間を感じている感覚。地球の表面はほぼ海だし、人間もほぼ水分だしね。だから海水が苦手で海水浴ができないのはあまり関係なくて、ただそこに存在してくれて、一目見られれば充分。死んだら骨は山のふもとではなく、海に撒いてほしいと思ってる。海と共に世界を旅したい。

だから自分にとってそんな存在である、海が見える家で暮らす夢を叶えるのはかなりのビッグプロジェクトだった。家を探している時はそんな存在だと気づいていなかったけど、今こうして書いてみてようやく噛み砕けた。

島国なのに海が見える家は想像していたよりない。よくよく考えると海沿いに家がドドドーッと並んでいる場所はあまり見かけないし、展望がいい場所はもう誰かが住んでいるか、購入型か、人里離れた場所になってしまう。何も条件がなくてどこでもいいならあるけど、楽器も弾くし、車もないし、IHはもう嫌だし、それなりに理想な暮らしはある。私は血眼になって探した。毎日各不動産ホームページに張りついては吐き気を催すぐらいネットサーフィンをして、日本全国の海沿いの街を探した。多分躁になっていたと思う。躁も使いようによっては便利だなと思った(笑)初めて自覚していた躁かもしれない。

私は東京によく用事があるためあまり離れない方がいいという結論に至り、神奈川県の海に絞って探した。三浦半島は海沿いにあまり家がなく、逗子はサーファーがたくさんいてキラキラした雰囲気が自分には合わず、江ノ島辺りは観光地すぎて家賃が高く、小田原まではバイパスが海と住宅地を隔てていて理想の海ではなかった。そうやってどんどん西の方へ行き、いつしか静岡県へ突入し、熱海からどんどん南下して、最終的に辿り着いたのが伊豆半島の伊東市。とても穏やかな気候で、ゆったりとした雰囲気が今の自分には合っていた。伊豆高原にあるキティ伊豆スタジオへ何度も通っていた懐かしさもあるのかもしれない。すでにたくさんの思い出が重なっている大切な場所でもある。海もギラギラしていなくて、生活の一部となり、街と暮らしている感じがあった。初めてその海を見た日は分厚い雲に覆われどんよりとした雨の日だったけど、それでも美しいと思った。私の海はここだ。ここでダメなら家探しはもう諦めようとさえ思った。

そうやって見つけたのが今住んでいる家だ。家から海は見えないけど、海まで徒歩3分だから見に行けばいいかってなった。海の側で暮らせる現実に私は興奮した。他には何も決まっていない。ただ自分はこれから海の側で暮らしていくということだけが分かっていた。不安がなかったわけではない。でも海は逃げていったりせずに毎日そこにいてくれる。それだけで充分だと思えた。だからあとは全部オプション。何が起きてもいい。自分だけの揺るがない土台を見つけられた気がして、躁鬱の波もここでなら穏やかになる予感がした。少し形は違えど老後の夢を叶えて、また叶えたことによって虚無感を覚えるのかなと思いきや今回はそうでもないらしい。私は今までとは違う心の満たし方ができているようだった。達成感はない。でも満たされている。不思議な気持ち。その答えはこれから確かめていく。

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