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細道での繋がりと暮らし

空が晴れていたため散歩へと向かう。目的地はなく、ただ歩いてみたい場所へ行ってみる。風景画を描くためだったり、新曲をイメージするためだったりもするけれど、単純に街並みが好きで歩いてみたくなるのだ。新井は細い道が入り組んでいて、行ってみないとどこへ辿り着くのか分からないワクワクさがある。家と家の間から時折り海が見えたり、階段を上がってみれば街を見渡せるほどの絶景だったり、直感でここに住んでみたいと思ったあの時の自分のセンスは間違いなかったと今でも思う。道の幅が狭いため重機は入れず、法律が変わってしまった現代ではこの場所で家を建て直すことができない。今でも古い街並みが残っているのは、そんな現代の制約が大きな要因なのだろう。新しく作り変えることはできない、今しか見られない景色なのだと思いながらこの風景を見ていると、儚さや尊さが相まって、より一層味わい深さを感じる。

途中途中で出会うご近所へご挨拶。風景画の写真撮りに行くの?と聞かれた。顔見知りが増えてきたため、普通の路地で写真を撮っていてもそろそろ不審者だと思われずに済みそうだ(笑)


夜、あんじん通り商店街で行われたイベントの打ち上げへと向かう。総勢10名の大宴会。たくさんの人たちと一緒にご飯を食べること自体が久しいけれど、伊東の人たちと一緒にご飯を食べている自分が何より不思議だった。予定調和な人生を望んでいた時と自分のままだったら、ここへは辿り着いていなかっただろう。そもそも伊東にさえ来ていなかったと思う。流されるようにやってきたこの土地で、一緒にご飯を食べられる人たちができたのはこの上ない幸せだ。二次会は紹介してもらったスナックへ行き、カラオケで熱唱して、帰宅した時は深夜1時を回っていた。打ち上げをしまくっていた時の懐かしさと、久しぶりの宴会への疲れを抱いて眠る。


朝起きると大雨だった。伊東市観光会館で行われる演芸大会を見に行くのだけれど、どんなに頑張ってもびしょ濡れになりそうな勢い。私は自転車族のため、カッパを来て歩いて行くことに。すると、家を出た時にちょうど車で出発するご近所さんがいて、その車へ乗せてもらえることになった。さらにお昼ご飯におにぎりを2つもいただく。車の中では、風景画に描いてある場所が何々さんの家と何々さんの家で〜と話してくれて、ご近所さんだからこそできる見方に風景画への可能性を感じた。

空想上の絵は解釈の幅が広すぎて、自己投影をするのが難しい。新井の街並みのように制限があるからこそ生まれるものがあって、わざとモノクロにするなど作者がある程度の制限を設けると、むしろ鑑賞者はそれを道標にしながら見ることができ、自己と重ねる共通点を探しやすくなったりする。自由すぎると鑑賞者も自由さを求められるため、つい作者の意図ばかりを探そうとしてしまうのだ。私はよく分からないものをよく分からないなあと言いながら、それ自体を楽しめるタイプだからいいけれど、おそらくこの楽しみ方は少数派だろう。多くの人は、完全に解釈の仕方を委ねられるようなよく分からないものを見た瞬間に考えるのをやめる。作者と鑑賞者の接地面を広く持つことができた風景画は、私にとって今までにない体験を多く得られた貴重な作品スタイルとなった。


観光会館では各地区ごとに席が割り振られていて、私は「新井」へと座る。この1年間で知り合った皆さんと談笑しながら、それぞれのチームが歌ったり踊ったりするのを見た。私は寸劇のBGMを選ぶ形で参加させてもらっていて、くじ引きで大トリになった新井のステージを客席から見守る。町内の人たち同士で一つのステージを作り上げるっていいなあと思った。人と人との繋がりは、間違いなく生きる糧となる。私も新井の皆さんとの繋がりから、たくさんの生きる糧をもらった。

雨上がりの帰り道、また散歩がしたくなり細道を通って遠回り。風にさらわれていく雨雲の合間から、太陽が見え隠れする。どんな自然の形さえも美しく見えてしまう。もうすぐ1年が経とうとしているけれど、今だに新鮮さを忘れないでいてくれる五感にもたれながら、街から漂う空気を全身で受け止めてみる。これが当たり前の景色になってしまう前に、出来るだけ多く作品へと封じ込めていきたい。

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