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余計なことでしか埋まらないもの

この街へ移住して1年が経った。部屋を見渡すと、随分と物が増えたように思う。東京の1Kの部屋から持ってきた物たちは、今いるリビング内だけにすっぽり納まり、こんなに広い家を一人でどう使いこなそうかと思ったけれど、当時の私はその荷物のようにコンパクトに縮こまってしまっていたのかもしれない。頭の中はいつも活動のことばかりで、典型的なワーカホリックだった。今では朝一で豆を挽いてコーヒーを淹れたり、野良猫がベランダへ水を飲みに来たらこっそり眺めたり、あそこにあんな棚がほしいなあと部屋のデザインを妄想したり、余計なことを考える時間が増えている。あえて「余計」という言葉を使っているけれど、この余計の中でしか埋められないものがあり、私はそのおかげで自分を取り戻せたと感じている。

1年前。
今。


ポストへ郵便物を出すために坂を下る。新井はどこへ行くにも必ず坂を上るか、下らなければならない。途中でご近所さんと出くわし、今度はいつ歌うのかなんて話になった。歌声を聴くと幸せな気持ちになれると言ってもらい、それが本当に嬉しかった。余計なことを考えるようになったおかげか随分と力が抜け、歌い方も変わってきている。一つのことに力を入れていると、それだけに執着してしがみつき、些細な失敗も見逃せなくなってしまう。たった一音を外すことが許せなくなっていくのだ。失敗なんて大したことないと思えるようになるのは、積み重ねた成功体験の上ではなく、その気持ちが膨らみすぎないように余計なことをたくさんして、一つ一つの出来事のサイズ感を小さくしておくのと、回避できる余計なことがいくつもあることの方が大事なのだと、この街での暮らしで知った。また少し坂を下ると、違うご近所さんに出くわし立ち話。ポストにはまだ辿り着けそうにないけれど、それもまたいい。おかげで私の「余計」は育まれ、自分の土台へとなっている。


南伊東まで自転車を走らせたついでに、リサイクルショップへ立ち寄る。確実に買えるネットで探すのもいいけれど、欲しいものがなんなのかすら分からない状態で探すのも楽しい。そこで見つけてしまったイスと照明。ちょうど探していたものでもあった。考えるのは値段ではなく、自力で運べるかどうかだ。宅配サービスもあるけれど、そのお金があれば干物を何枚も買えるなんて計算をし、2回に分けて運ぶことにした。店員さんに照明の取り置きをお願いすると、歩きですか?と聞かれ、自転車ですと答えると驚いていた。この人は今からイスを自転車にくくりつけて帰るのかと想像したのだろう。その通りだ。なんとか上手いことくくりつけて、約4kmの道のりをゆっくり走る。今までこの自転車で色んなものを運んだけれど、イスは初めてだ。無事に帰宅し、置き場所に困っていたポトスをさっそくイスの上へ。想像通り、イスの黄緑色がポトスの葉の色とぴったりだった。大満足。後日、再び約4kmの道のりを往復して照明を運んだけれど、イスよりは楽だった。もう何でも自転車で運べるような気がする。私の日々はまた、余計なことで彩られた。

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