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社会と私の間にはいつもアートがある

他者と上手く混ざり合えたら、伝えられたらアートなんて必要ない。私はいつも社会と自分の間にできた溝を埋めるように作ってきた。作らないでいられることはそれだけ人生が充実している証拠でもあり、作れることは自分だけの逃避場所があるということ。アーティストが元気な時より病んでいる時の方が作れるなんて話があるのは、創作行為が現実からの逃避だからなのだろう。


作る時は一人だ。みんなで一緒に作るバンドなどは例外として、ギターを抱えて曲を作る時も、紙の上で線を引っ張っている時も、文章を書き連ねている時も、自分一人だけ。創作と孤独はセットになっている。社会の中にいるよりも作っている時の方が寂しさを感じず、音楽や絵や文章などのアートと対話できるようになった者がここを居場所とし、住まうのではないかと思っている。周囲の人たちからすれば、おかしな人間にも見えるだろう。見えないものが見えていたり、聞こえないものが聞こえていたりするから。そこでアートを挟むと、見えなかったものが見えるようになったり、聞こえなかったものが聞こえるようになったりするから、おかしな人間はおかしな人間からアーティストになる。アートは社会と、社会に混ざり合えなかった者の繋ぎになったりもするのだ。

私がギターで曲を作り始めた時もそうだった。曲にすることで受け取ってくれる人が現れて、仲間が増えて、色んな場所へ行き、たくさんの人たちと出会った。私がアートという居場所を見つけられなかったら、今ごろただの引きこもりになっていたかもしれない。曲も作れて絵も描けてすごいと言ってもらえることがよくあるけれど、それだけ社会と交わることができずに、一人の時間が多かった人間だと自分では思っている。


制作にどっぷり浸かっていると、他者とコミュニケーションが取れなくなっている自分に気がつく。言葉を持つ人間との対話と、言葉を持たない人間以外との対話は、そもそも使う感覚が違う。人間以外との対話は、自分が言葉にするもっと手前の感情と向き合わなければならないため、全ての感覚が敏感で繊細になる。だからちょっとしたことに感動したり、傷ついたり、その辺に転がっている石ころでさえアートに見えたりする。そんな些細なことに一喜一憂しているため、人混みや大きな音、ネガティブなニュースなどに触れるととんでもなく疲れてしまうのだ。だから一見、何もないような、何も聞こえないような空間くらいがちょうどいい。そこから自分だけに何が見えるのか、何が聞こえるのかを探していくのが面白い。

創作をするために必要なのは、他者にはないセンスとか、コツコツ練習できる根性とか、そんなものではない。現実ではない「アート」という居場所が、生きていく上で必要かどうかだと感じている。アートを通して「自分はこう感じました」を表現する、なんてまどろっこしいことをせずに、他者へ「自分はこう感じました」と直接伝えられるなら必要ないのだ。伝えられずにできてしまった社会と自分の間の溝を埋めるために、一旦アートへと落とし込む。アートはどんな人の、どんな感性でも受け止めてくれるからすごい。

社会と私の間にはいつもアートがある。それは拠り所となり、居場所となり、社会との繋がりとなっている。

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