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言葉の限界

私は今、堤防の上に寝そべって青空を眺めながら文章を書いている。宇宙まで見えそうなくらいに透き通る空、浜辺に打ち寄せる波の音、カモメの鳴き声、135を走り抜けて行く車の音、時折り強めに吹く冷たいような温かいような風、日没に近づき暑さが和らいだ太陽の光、釣りへ出かける人たちの会話、磯の香りは今日はあまりしない。たくさんの情報が身体のあらゆる感覚を通して伝わってくる。これらを言葉にするのはとても難しい。私は今なんとかして頭の中から知っている言葉を引っ張り出して当てはめているけれど、文字だとどうしても角ばってしまう。

文字にするのはとても好きだけれど、同時に限界も感じている。一口に「青」と言っても、人それぞれが想像する青には種類があって、美術の本にでも載っている色番号を示さないと一致はしない。しかも目で見えている色自体がそれぞれに違うらしいから、私とあなたが同じ青を見ていたとしても一致しない。つまりどんなに言葉で説明しても、どんなに同じ景色を見ても、それぞれの世界が一致することはない。性別が〜とか、国籍が〜とかよりもずっと以前に、私たちは一人一人全員が違う世界を認識している。なのに意見の違いをぶつけ合って争っているのはおかしなことだ。だって絶対に同じにはならないのだから。それでも摩擦を繰り返してしまうのは、言葉という表現方法を身につけてしまったからだと私は思っている。

「人間は記号や言語で表現する方法を身につけてから、目の前の現実との距離が広がってしまった」という話がとても好きだ。最初につらつらと言葉を並べて今の状況を説明している時点で、私と現実の間には距離が空いていると感じる。説明している時点で時間軸は過去になっていて、言葉にする度に今と離れていっているからだ。よく皆んなが一つになったと感じられるライブというものは、音によって限りなくリアルタイムで伝わっているからであって、人がより動物に近かった時代は、言葉よりも先に音楽が生まれている。言葉なんてなくても、通じ合えている時があったのだ。実際に人間以外の生き物は、言葉がなくても生きている。つまり私たちは、言葉を身につけてより高度なコミュニケーションが取れるようになったように見えて、この世界から、動物から、お互いから離れていっている。言葉がなければ文化も生まれないけれど、言葉による分かりにくくてややこしい摩擦も生まれない。

だから私は今、堤防に寝そべりながらただ感じることで、現実との距離を縮める練習をしている。ちょっと肌寒いから移動したけど…。もしこの脳みそを少しの間だけでも止めることができたら、世界がもっと違うように見えるのかもしれない。言葉はこの世界との壁だ。だけどこの世界を表現したいというどうしようもない気持ちは、言葉でしか言い表せられない時がある。そんな言葉のジレンマを感じながら、今日も文章に書いている。

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