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暇を楽しむ

あらゆる納品が終わって、また作品を作る日々が戻ってきた。以前まではやらなくちゃいけないことがあると安心していたのだけど、今はやらなくちゃいけないことがなくても安心を感じている。私の中でやらなくちゃいけないことと言うのは、期限が決まっていたり、途中ではやめられなかったり、誰かに求められていたりするものだ。私の作品は、今はそうしていない。やらなくちゃいけないことにすると窮屈になって、余白がなくなる。だから発表する日は決めないし、気分が乗らない日はやらないことにした。頑張ってやることには必ず限界がある。いつまで経っても完成しなさそうに見えるけど、こうした方が自然とたくさんの作品を作れると知った。だから暇が増えると嬉しくなる。

やらなくちゃいけないことはないけれど、いつも通りに朝6時に起きた。以前までなら目的がないと朝起きれなかったのだけど、今は暇を楽しむために起きれる。まずはコーヒーを飲みながら文章を書く。これはどんな日も変わらずやっていて、もはや排泄に近い。noteへ上げていない日は出が悪すぎて完成できなかっただけで、一切書かない日はない。気がついたら「生活すること」についてもう50本も記事を書いている。頑張って書こうとすると、踏ん張って痔になるみたいに身体にとってもよくない。踏ん張らないでスムーズに出るようにするための腸内管理の方が大事だ。………そろそろこの話からは離れよう。

次は昨晩から描きかけだった風景画を仕上げた。どんなに途中でも、夜6時には終わるようにしている。ご飯や睡眠よりも作品の方が大事にはしない。ご飯=睡眠=作品のように常にイコールのポジションにしておくと、巡り巡って作品にもいい影響が出る。普段の生活からしか自分はできていないのだから、どんな作品が作れるかは作品に対しての意気込みや気合いではなく、普段の自分が何をしているかだ。

次は作詞作曲してあった曲のアレンジを始めた。この街で感じていることを文章や絵に落とし込むのはでき始めているけれど、音楽はまだできていないと思っている。風景画は転写機に近く、私が描いているようで描いていない感覚がある。曲もそうしたいけれど、まだ私から離れられていない。ずっと自分のことについて歌ってきたのだからそりゃそうか。ただ自分を通過させて音にするように作りたい。余白しかない街の空気感は全てを受け入れてくれているようで、そこで完結している感じもある。だからここへ何かの楽器の音を加えるのが難しい。全部の解釈が正解のようで、全然遠い感じすらする。

分かんねー!ってなったから昼は海へ行くことにした。クロスバイクに乗って颯爽と坂道を下ったけれど、なんだかグラグラしていて、嫌な予感がして確認したらパンクしていた。死活問題!私の唯一の移動手段が失われた。やっぱり免許を取るべきか…。家から一番近いバイク屋さんでパンクを直してもらえることになり、今日は海へ行くのをやめようかとも思ったけれど、気分はもう海になってしまっていたから歩いて行くことにした。せっかくだからクロスバイクでは行けない道の散策もしたくなり、かなり遠回りした道を行く。歩いているだけで楽しいと感じるのは、この独特の空気感のせいなのか。普通の住宅街のはずなのに、非現実感が漂う。それでいて物凄く近い距離の日常も感じられて、その両者が絶妙なバランスで存在している。

1時間くらい歩いて、初めて見つけたパン屋さんでパンを買い、最近お気に入りのスポットで海を見ながら食べた。釣り人や観光客で賑わっている。それでもこの辺りは静かで揺るかな時間が流れていて、皆んながそれぞれの暇を楽しんでいる。私にとってこの海での暇な時間が最高に贅沢だ。暇さえあれば海へ来て、何もしないで帰る。何もしない時間を過ごせることが幸せに思えるようになった。焦って気持ちが未来へ先走っても、そこへ行けるのは未来の自分だけだ。それなら今を確かに刻みながらそこへ向かう方がいい。暇とは人生の余白を楽しむ、人間だけが知っている時間なのだと思う。

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