見出し画像

後回しにしない

ちょっといい額を買った。自分用に。最初はそんな額を買うつもりはなかったのだけど、絵に合う額がこれしかなかったから結果的にちょっといいお値段の額になった。額によって絵の見え方はかなり変わる。値段よりも、絵に合うか合わないかの方がよっぽど重要だった。でもぶっちゃけ100均のものでもいい。ましてや自分用なのだからこの額を見る人は私以外にほとんどいないし、その額が100均のものなのか、ホームセンターのものなのか、額装屋さんのものなのかなんて一目では分からない。完全なる自己満足。

以前までの私なら絶対に買うのを躊躇した。ここで我慢すれば活動費に回せると。自分用ではなく、展示用にお金をかけるべきだと。たかが数千円なのに、その金額すら自分のために使えなくなっていた。お金がないのではなく、使わないという選択だ。この選択は額だけでなく、ほんの些細な日常生活のいたるところでやっていて、今やっておけば満足できるのに、少し先の未来を心配して我慢する癖がついているのを自分では気づけないでいる。その癖はだんだんと馴染んで無意識にやるようになって、ついにはやろうとしても何をしてあげればいいのかさえ分からなくなり、自分へのご褒美とか言ってコンビニで200円のスイーツを買って満足させる行為を繰り返したりする。

何かのために、誰かのためにやることは、自分のためにもなるからやっているはずなのに、どんどん空っぽになっていくような感覚は、自分が後回しになっているからだと思った。他人の幸せを願う人は幸せになれるとか、幸せな人は与えられるより与える人とかよく聞くけれど、それは違うと思う。少なくとも私は違う。皆んなこの言葉に騙されて、まずは他人の幸せのために頑張ろう!とやってしまい、これじゃない感を抱く。さらには、これじゃないと思ってしまう自分の心が汚れてるんだ!と勘違いしてしまう。実際に私は、他人の幸せを願えない自分の心は歪んでいると思っていた。マザーテレサみたいになるにはまだ修行が足りないのかなって(笑)

私が心の底から何かのために、誰かのためにしたいと思うようになったのは、自分を後回しにしなくなってからだった。矛盾して聞こえるかもしれないけど、自分を最優先するようになってから自然とそういう気持ちが湧いてくるようになっていた。人間は全員、自分が一番大事だ。自分が大事じゃないって言っている人は、自分自身に嘘をついているか、癖がつきすぎてマヒしてるだけだと思う。他人の幸せを願えている人の深層心理は、自分が完全に満たされている状態で、そこからはみ出してきた数%を他人のために使っているだけ。つまり余力みたいなもの。よくよく考えると、与えてもらう側も余力くらいでやってもらわないと心配になってしまう。毎日もやししか食べれないけどボランティアに来ました!って言われたら、いやいやまずは自分のために働けよ!と思うだろう。自分を満足させないまま他人の幸せを願うのはそれと似ている。自分は余力で他人の幸せを願ってますってなんだかカッコ悪いから言わないけど、自己犠牲なんて響きに惑わされて、幸せにする人の順番を間違えているのもカッコよくはない。自分のためにするのが悪いことのように思えてしまうのは、自己中なやつだと思われたくない、いい人に見られたいという周りの目を気にしすぎている結果なのかもしれない。私は今日も自分のために、自分のご機嫌を取って、自分の幸せを満たし続けているけど、特に文句は言われないし、そうしているとなぜか喜んでくれる人がいる。なんか分からないけど喜んでくれてよかった〜くらいがお互いにちょうどいいと感じるこの頃。

この記事が参加している募集

頂いたサポートは活動のために大切に使わせていただきます。そしてまた新しい何かをお届けします!