見出し画像

成功と失敗

初めて行った東京の美容院で、最近海の街へ引っ越した話になった。すると美容師さんが、「後悔はしていないですか?」と不思議な質問をしてきた。「後悔」って何だっけ?全く頭になかったその言葉の意味を改めて考える。後悔とはこんなはずではなかったとか、もっとこうなってほしかったみたいに、予定調和が狂った時に生まれる感情だ。私より年下の26歳の美容師さんは、どうやら東京から地元へ帰るのを迷っていて、何かが変わってしまうのを恐れているようだった。私も後悔を恐れてできない時はある。だけどふと思い返してみると、久しくその感情を抱いておらず、海の街へ来てからは一度もない。この街には何の予定も、何の期待もなく引っ越してきた。ここからまた何かを始めようとか、何かを成し遂げようなどとは微塵も考えていない。とにかく海の側へ行こう、その後のことはまた行ってから考えればいいと。でも全てがどうでもいいみたいな投げやり感はなく、起こっていく事実をただ受け入れて流されていく川のような気持ちで、私にとってそれは新しい感覚だった。すると色んなことが起きた。

たまたま見つけた家の周りのご近所さんはとても優しい人たちばかりで、一人も知り合いがいない街から、世間話ができるほどの繋がりがある街になった。スーパーしか行ったことのない私にとっては初めての八百屋さんで、安くて新鮮な野菜を季節ごとの旬で手にするようになり、今まで作ったことのない料理を作るようになった。家でほとんど干物なんて食べていなかったのにその美味しさを知り、毎回サービスしてくれる干物屋さんを応援したい気持ちが芽生えた。大好きな海が側にあると、ちょっとした買い物へ行くのも面倒くさいと思わず、用事もないのに外へ出かけるようになった。自然が近いと苦手な虫がたくさんいるけれど、毎日毎時間変わっていく景色を楽しめて、気候で予定が狂うのをなんとも思わなくなり、その日の予定をその日になってから決めるようになった。この街並みや暮らしを美しいと感じて、一度も描いたことのない風景画を描くようになり、いつもサービスしてくれるお礼に干物屋さんに絵をプレゼントしたら喜んでくれて、さらにメニューのデザインを頼まれた。家がある地区の集まりに顔を出してみたら、来たのを喜んでもらえて、カラオケで歌を披露し、この街の曲を作ってほしいとお願いされた。

これはここ4ヶ月の間に起きた、ほんの一部の出来事。ただ海が好きだからという理由だけで来た街で、なぜこんなにも色んなことが起きていくのかが不思議だったけど、多分何も決めてないからこそ感じられている出来事だと思っている。もしもこの街で一旗上げようと何か目的を持って来ていたら、ご近所さんたちとの世間話も、八百屋さんや干物屋さんとのやり取りも、毎日変わっていく景色も特に気にも止めず、ただ通り過ぎていく日々として淡々と過ごしていたかもしれない。起きている事実を自分がどう受け止めていくかで、どうでもいい日常のままなのか、特別なイベントに変わるのかを知った。

私はガイドブックを見ながらする旅行が好みではない。確実に楽しめるスポットには行けるかもしれないけど、そのスポットへ行くことが目的になってしまい、途中にある何気ないスポットに気づけなくなってしまうからだ。観光客向けのオシャレで高いお店でなくても、地元密着型の安くて美味しいお店はたくさんある。だけど私の人生プラン自体は、誰かのガイドブックを見るか、スケジュールを決めなければ進めないと思い込んでしまっていたかもしれない。例えば半年後に100人集めるのを目標にすると、それ以外のことはどうしても目に入らなくなってしまうし、集まらなかった時は99人でも失敗になる。結末を想定すると、その通りになる成功か、その通りにならない失敗かの2つの道が突然現れて、あたかもそれ以外の結末はないように見えてしまう。それは小学校→中学校→高校→大学→就職という流れの中で、長年自分の結末を決めながら生きてきた癖みたいなものなのかもしれない。

そもそも成功と失敗は、ある一つの視点だけから見ている状態なのであって、本来その2つの概念は存在しないと今は思っている。他の誰かから見れば、築50年の古家で一人暮らしをしながらご近所付き合いをして、毎日自炊をしなければならず、自然に左右されて予定が狂うような私の生活は失敗に見えるだろう。だけど何も求めていなかった私にとっては全部が特別な出来事で、結末を決めていないから何が起きても成功も失敗もない。ただそれが起きた事実があって、どう受け止めていくかだけ。自分が決める道をずっと信用してきたけれど、どうやら決めない方が道はずっと多くて、失敗したと落ち込むこともなく、なんとなく上手く行っちゃうようだ。だから「後悔はしていないですか?」とまた聞かれたら、こう答えると思う。後悔はしていない。そしてきっとこの先もしない。何も期待していないから。あとは起きることをどう楽しんでいくかだけだと。

この記事が参加している募集

この経験に学べ

この街がすき

頂いたサポートは活動のために大切に使わせていただきます。そしてまた新しい何かをお届けします!