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PERFECT DAYS、わたしの思い

昨日、PERFECT DAYSをみて、こう理解した。

朝が来て夜が来るけれど、同じ日々はない。空気のように生きたいけれど、人や社会との繋がりは完全に断てないし、断ちたくもない。空気のように人の役に立っていたいし、かと言って、感謝されたいわけでもない。
淡々と静かに繰り返す日々の中で、失ってきたものや捨ててきたものを後悔することもあるし、喜怒哀楽もある。時には、他人の生き方を少しだけ変えることもある。
だから同じ日は、二度とない。そういう人生は、移ろう季節の営みと陽の傾きが創りだす、ある瞬間の木々の陰影のようだ。それで、いいじゃないか。

映画の感想は色々あるのだろうけれど、長野県八ヶ岳山麓の人里のすみっこに、一人でいる時の自分を見るようだった。

霧吹きで植物に水やりする様子も、公衆浴場の受付で会釈する様子も、自分のこれまでをよく知る人がいない町で、軽自動車に畑の道具を積んで、(Spotifyだけど)70年代の音楽をききながら運転する自分が重なる。

自分にも、うちの周りの木々の様子が変わっていくのを写した写真ばかり、たくさんある。なぜ、あなたは、毎週、長野に行きたいの?と聞かれると、「うちの周りの自然に、同じ様子は二度とないから」と答えてきた。

だから、平山さんが、誰に見せようと思うわけでもないのに、ある瞬間の光と影を、写真として切り取って残しておきたい気持ちがわかる。

還暦を数年超えて、残りの人生が、どれだけあるか解らないけれど、コンサルティング会社や化学会社時代のように、大きな成功や自己実現が欲しいとは思わなくなった。役所広司さんは、平山がご本人とは違うから役作りに努力をされたと聞く。演技の映画ではあるけれど、自分が残りの人生を静かに生きようとするとき、自分は平山になれるだろうかと考える。

残りの人生分、生きる糧を得る方法は、さまざまで、もう肉食のような狩りのエネルギーには関わりたくないけれど、自己満足でも社会の役に立っていたい。

できれば、それに気づいてくれる人との交流が、いくつかでもあれば最高なのだろうと思う。そうなれるかな。


(写真は、ある晩夏の午後、秋の気配を感じて見上げた、うちの裏のモミジの葉にさす光)

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