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小説:血の涙たちよ、いま踊れ

「こんな景色なんて」と呟いた僕は、忌々しく積もった雪にスコップを突き立てた。
必要以上に冷たい空気が気管支を締め付ける。
風景はあまりに白かった。
「まだ10分の1だよ」と、白が嘲っていた。

「あと10年だな」と、晩秋に祖父が言った。
「あと10年もしたら、ここいらは終わりだ。ヤスケの家も、マゴシロウの家も、誰も継がねぇ。みんな出て行った」
「はぁ」と僕は言った。
ヤスケ?
マゴシロウってどこの家だ?
「仕方ねぇな。時代だもの」
10年、と僕は思った。
そんな未来の話をしてどうなる。
10年前に僕はガラケーを使っていたんだ。
いや、ましてや高校生だった。
10年後の未来に離婚した僕が実家に戻っているなんて、童貞ソー・ヤングだった僕には想像も出来なかった。
祖父は続けた。
「お前も無理にここに居なくていいんだぞ」
僕は曖昧に頷いた。

その祖父が死んだ。
あまりにもあっけない死だった。
酔ってトイレの前で転倒した祖父は頭を打った。
それだけの話だった。
僕の生活は突然慌しくなった。
父がいない僕は、ナースステーションで医師から説明を受け、霊安室で看護師たちと遺体に手を合わせ、葬儀会社へ連絡し、死亡診断書を手に葬儀会社の車で遺体を自宅に運び、一晩中蝋燭の火を絶やさないように見守った。
葬儀会社の担当者は機械のように淡々としていたが、僕はそれがありがたかった。
悲しむのはあとにしようと言ってもらえているようだった。
それほど人が死んだ時にはやるべきことが多いのだ。

翌日、1時間だけ眠った僕は菩提寺と親族に連絡した。
「それは大変でしたね」と、僧侶は毎日のように口にしているであろう言葉の後に葬儀の日取りを決めた。
親族はというと、誰もが面倒くささを隠しきれていない対応だった。
”こんな楽しい日々にどうして水を差してくれるんだ”という文字が、iPhoneのスピーカーを貫通して届いた。
「じゃあ悪いけど、車を置くスペース作っておいてくれる?忙しいだろうけど」
「そうですね、雪よせしておきます」
僕は電話を切ったあとで、”自分の車を置くスペースを自分が雪よせするという考えは浮かばなかったのだろうか”と思った。
しかし、そういった些細な苛立ちに気力を割いている暇はなかった。

僕は長靴を履き、スコップを手に裏の敷地に向かった。
家の裏には、車がゆうに20台は駐車できる敷地がある。
昔は畑だった土地だ。
祖父と祖母が活発だった頃には、ここで熱心に野菜を育てていた。
まだ小さかった僕は、「野菜なんてスーパーで安く買えるのに」と思っていた。
祖父と祖母には自慢の畑であっただろうその土地を前にして、僕は途方に暮れていた。
訪れる車の台数分ぴったりを雪よせすればいいわけではない。
車がすれ違い、切り返しができるくらいのスペースを確保しなくてはいけない。
除雪機を買っておくべきだった、と僕は思った。
しかし考え事をしている程の時間の余裕はない。
僕はその無限とも思える雪面にスコップを挿し入れた。

黙々と雪をよせる動作を繰り返しながら頭に浮かぶのは、なぜだか小さな頃の畑の風景ばかりだった。
今でも畑のすみに視線をやれば、祖父と祖母がひっくり返したビールケースに腰掛けてこちらを見ているような気がした。
小さな頃、畑で遊ぶ僕を呼び留めて祖父が言った。
「見てみな。いい景色だろ」
祖父が指さした方向には、なにもなかった。
茶色い畑に生えた野菜、畑のすみの寂しげな柿の木、よどんだ色の杉山。
僕にはなんの面白味もない田舎の景色にしか見えなかった。
「なんもねえじゃん」
「はは、そうか」
「こんな広いんだからコンビニとか建てればいいのに」
「この風景はな、昔の人が何百年もがんばって作ってきたんだ」
「けどなんもねぇよ?」
「こんなにいろいろあんじゃねぇか」
「えぇー?」
「なんもしなきゃ、今ごろここにはなんもねぇ」
「今もねぇよ?」
「コンビニはひと月でできるけど、血と風景は数百年かけてやっとできる」
「ふぅーん」
「あぁ、でも違うよ。お前にこの先どうこうしろってわけじゃねぇ。俺は俺がやれることをやっただけだ」
「ふぅーん」
「いい景色だ。うん、いい景色だ」
祖父の目はどこか遠くを見ているようだった。
おそらくそれは曖昧な未来なんかではなく、揺るぎない数百年の過去の風景だったのだろうと思う。
気がつくと僕は雪よせが出来なくなっていた。
少なくとも、涙が視界を奪っているうちは。

祖父の葬儀はとてもスムーズに進んだ。
僕の頭はとてもクリアになっていた。
辛うじて覚えていた般若心経で祖父に最後のお別れをしたあとで、親族の一人が言った。
「あんだけ土地余ってるといいわね。この先も車停めるとこに困んないわ」
「いや、来年からは使えないんです」
「あら、売るの?」
「僕が畑にするので。もう一度、畑に戻します」
「あらー、できる?」
「わかんないです。けど、やれるだけはやりたい」
「あんた、おじいさんにそっくりね」
僕は祖父のような顔で笑った。

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