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小説:月に歌えば【1000字ジャスト】

教室中にニルヴァーナが響き渡った。
イヤホンの音が小さいなと思い音量を上げたことでそれは悲劇を越えたらしく、
先生まで笑ったあたりで、私はやっとBluetoothの接続が切れていることに気が付いた。
私はあだ名がカートにならないように願うしかなかった。

「そういうの聴くんだね」と、講義のあとで同期が言った。
「いろいろ聴くだけ」と、私は曖昧に答えた。
「ふぅーん」と、彼女は言った。
私の答えが思ったより面白くなかったのか、彼女はそれ以上話を広げようとしなかった。
理由を言わずに済んだことに、私は胸を撫で下ろした。

私の本体はいったいどこにあるのだろうと、私はときどき考える。
私を構成するもののうち、私が選んだものなんてあっただろうか。
うまく思い出せない。
思い出したくないだけかもしれない。

彼が聴いた音楽で同じ感情を抱きたい。
彼と同じタバコの匂いを身に纏いたい。
彼は今なにをしているだろう。
無性に歌いたい気分になった。
彼は私の歌声を褒めてくれた。
夜がくればいいな、と思った。

私はうまく笑えない。
それでも皆は「いつも笑顔だね」なんて冷たいことを言う。
誰も表情なんて見てはいないのだ。
あの人たちにはきっと、ピエロですら笑っているように見えるのだろう。
私はタバコに火を点ける。
そして皆は「タバコなんてやめな」なんて冷たいことを言う。
なぜタバコを吸っているかなんて誰も聞いてこない。
聞かれたくもない。

「いつもメンズみたいな恰好してるよね。顔かわいいのに」と同期が言った。
「そうかな」と私は言った。
「コーディネートしてあげよっか」と彼女は言った。
「いや、いいよ」と、私は彼のような簡素な口調で、彼のような悲しげな笑顔で答えた。
そのことに気が付いて、私はまた無性に歌いたい気分になった。

私は彼になりたいわけではない。
そう信じたい。
じゃあ私の行動はいったい何なのだろう。
彼の好きなものをもっと知りたい。
もっと彼で私を構成したい。
彼が振り向いてくれなくてもいい。
彼がひと言「へぇ」と言ってくれればそれでいい。
その一瞬のためなら、私はなんだってする。
それ以外の世界なんていらない。

そして私は月に歌う。
それ以外に衝動を抑える方法を知らない。
「想いよ届け」なんて図々しい事は思わない。
私と、私の恋が確かに存在することを、月に向かって吠えているだけだ。
ただ純粋で乱暴なケモノのように。

私はふと、同期の彼女がいなければいいのかな、と思った。

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