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【小説】午後の最後の光

五限目が始まるチャイムで席に着くと、教室には誰もいなかった。
みんな絶滅してしまったのだろうか。
それならそれでいいのだけれど。
教室のドアが開く音がして振り返る。
生存者だ、と私は思う。
「生物の授業、実験室だって」とクラスメイトが言った。
私は恥ずかしかった。
人並みに友達がいれば地球で最後の教室に置き去りにされることもなかったのに。

実験室に入ると、私以外のすべてが授業の準備を済ませていた。
私はまた恥ずかしくなった。
私のことなんて誰も気に留めていないのはせめてもの救いでもあった。
黒いテーブルの上には、ゴム手袋と、いくつかの実験器具、トレーに乗った見慣れない塊があった。
生臭さ、ゴムの匂い、ツンとする消毒液の匂い。実験室に漂うさまざまな不快さは、私の憂鬱を煽り立てるようだった。
私はなにも気にしていない風を装って席に着いた。
私はいつだってクールなのだ。
しかし、テンションの高い教師が話し始めた瞬間に、私のクールは消し飛んでしまった。
「今日は豚の目をもらってきましたー!みんなで解剖してみましょう!」
ひゅ、と鋭く息を吸い込むと同時に、私は体をこわばらせた。全身に鳥肌が立っていた。
トレーに乗った見慣れぬ塊の正体を知った瞬間から、私はそれを直視することができなかった。
呼び方を知らない感情に支配された私は、涙がこぼれそうになった。
それは恐怖でも悲しみでも怒りでもなかった。
どうしてわざわざそんなことをしなければならないんだろう。
ただでさえ生きるのがつらいこの世界で。
周りの生徒は笑いとも悲鳴ともつかない奇声をあげながら解剖を始めていた。

硬直したままの私に気付いた先生が、私に声をかけた。
「だいじょうぶそ?途中まで先生やろうか」
「たのむ…」と、私は消え入りそうな声で答えた。
敬語使おうね、と呟きながら、先生はまるで料理でもするかのように豚の眼球のまわりについたピンク色の肉を刃物で取り除いていった。
料理、と私は思った。そして、昼休みに食べた弁当のことを思い出した。
こともあろうに、今日の弁当には豚の生姜焼きが入っていた。
私は体内に豚肉を存在させたまま、豚の眼球を解剖しようとしているのだ。

私が倫理観やらめまいやらと格闘している間に、先生は眼球をすっかり球体のかたちにしてしまっていた。
「ここからはもう指で触らなくても大丈夫だから。ピンセットとメスで解剖してみてね」
なにが大丈夫なのだろう、と思いながらも、私は勇気を振り絞って豚の眼球を見つめてみた。
豚もこちらを見つめていた。
私は泣きたかった。
豚だって泣きたかっただろう。
でも豚はもう泣けない。
その目はとっくに涙腺から切り離されているのだ。
私と豚は、しばらくのあいだ見つめあった。

気が付くと、私はもとのクールさを取り戻していた。
解剖してあげなくてはならないような気さえしていた。
私はピンセットを手に取り、豚の眼球にメスを当てる。
眼球は思いのほか硬く、何度かメスを往復させる必要があった。
切り開かれた側面から、とろりとしたリンパ液が流れ出る。
ピンセットを持ち直し、眼球を前後にすっかり切り分けてしまう。
いつの間にか私は夢中になっていた。
まるでそこに隠されている大事なものでも探しているみたいに。

授業の終わり、解剖したものは新聞紙にくるんでゴミ箱に捨てるように指示された。
皆はなにか言いたげながらも指示通りにし、私も同じようにばらばらの肉片を新聞紙にくるんだ。
私はいつも皆より作業が遅かったし、片付けだってもたついていた。
でも今日は違った。
もたもたしているふりをして、皆が実験室から居なくなるのを待っていただけだった。
誰もいなくなると、私は実験室のベランダに出た。
天気の良い春の午後だった。
私は青い空を見上げてひとつ呼吸をしたあと、手に握っていた豚の水晶体を手すりに置いた。
豚の水晶体は、午後の光を受けてきらきらと輝いていた。

家に帰ると、母が夕食を作っていた。
私は母に話しかけた。
「今日ね、すごかったんだよ」
「なにが?学校?」
「豚の目、解剖してきた」
「うえぇそんなことすんだ。お母さんムリそういうの」
「あたしだってムリだよ」
「でもやったんだ。すごいね」
「すごかった」
私はもっとなにかを説明したかったけれど、どうしても言葉にならなかった。

私は自室に向かい、ベッドに倒れこんだ。
とても疲れていた。
もっといろいろなことをうまく説明できるようになりたいな、と思った。

私を呼ぶ声が、階下から聞こえていた。
いつの間にか眠っていたようだ。
一階に降りると、食卓の皿には豚の角煮が盛られていた。
私は笑った。
どうしようもなく笑った。
その豚の角煮が、あの眼球の持ち主であることに気付いたからだ。
証拠なんてもちろんないし、そこには理由すらない。
説明するつもりもないし、そんなものしたくもない。
私はこの狂った世界で生きていくのだ。
おなかの中に豚を入れたまま。
世界のすべてを眼球に焼き付けながら。


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