小説:山桜

曾祖母が亡くなった。
母方の実家の曾祖母であったので、申し訳ないけれど、顔を思い出すのが困難な程度の薄い関係ではあった。
「あらー、ヤヨイおばあちゃん亡くなったって」
と母が電話を切りながら言った声も、タブレットで推しを求めてガチャり続けていた私には雑音でしかなかった。
「ヤヨイおばあちゃんってあれでしょ、本家の。いやー俺仕事休むのムリっぽいなぁ」
と父が言ったところで、推しを引いた私はソファから転げ落ちて三点倒立をした。
「カスミ…?それはどういう状態?」
と父が聞いた。
私はそれに答えず、ソファに座りなおして
「ヤヨイおばあちゃんってどんな人だっけ」
と聞いた。
母はしばらく考えたあと
「…小柄な人」
と答えた。
「なんで三点倒立…三点倒立したくなったことって今まであったかな…ないな…”三点倒立 感情”で検索しても出てこないな…難しいな…」と、父は独り言を言った。

母と私が曾祖母の葬儀に向かうことになった。
私は曾祖母の事を思い出せなかったが、実家の風景はなんとなく覚えている。
長い垣根があった。真っ黒な猫がいた。大きなクスノキがあった。山桜の樹があった。今ならちょうど桜が見られるかもしれない。
新幹線の窓からぼーっと時速300キロの田園を眺めながら、私は幼少期の断片を集めていた。
母は隣の席で
「アイスが固い。アイスが固いんだよ」
と繰り返していた。

実家に着くと、皆モノクロの服を着ていて、線香の香りがした。
私はそこでやっと「人が死んだんだな」と感じる事が出来た。
棺に寝ている曾祖母の顔は、記憶が無いながらも「こんな顔だったっけか」と思うほど痩せていた。
翌日の葬儀までにはとくにやることがないと聞かされた私は、Wi-Fiの電波が存在しないことを確認すると、まったくヒマになってしまった。
やれやれと思いながら庭に出ると、小さい頃とまったく変わらないクスノキがそこにあった。

小さな頃の記憶だから思っていたより小さく感じる、などということはなく、クスノキは相変わらず大きくそびえていた。
そうだ。私はこのクスノキに背をもたれて、絵本を読んでいた。
記憶をなぞるように、私はあの頃と同じようにクスノキにもたれかかってみた。制服のスカートを汚さないように。
私はクスノキが広げた枝葉を見上げながら、短歌を考えてみようかと思った。しかし、言葉はなにも出てこなかった。

縁側から、黒い猫が凛々しい表情でトトっと降りて、こちらに歩いてきた。
あの猫、まだ生きてたんだ。
黒猫はこちらに興味が無いふりをしながらクスノキの匂いを嗅いで、ついでに、といったふうに、しゃがんだ私の足に体をこすりつけた。
撫でさせてあげてもいいが?というような声で鳴いたので、私は畏れ多くもしっぽの付け根をとんとんさせていただいた。
黒猫はものすごくブサイクな表情でふがふが言った。

「カスミちゃん、久しぶりー」
と、縁側からタマおじちゃんの声がした。
「タマおじちゃん、久しぶり。大きくなったね」
と私が答えると
「いや逆逆ぅ!それ俺が言うやーつ」
と返してくれた。
タマおじちゃんは仕事で近場に来るたびに私の家に寄って、一人っ子の私とよく遊んでくれた。
私を見つめる黒猫を指さして
「おじちゃん、この猫って今何歳なの?」
と聞いてみた。
「いや知らないよ。野良猫でしょ?」
とタマおじちゃんは答えた。
「野良猫じゃなくて、この猫…え?この猫って昔からここで飼ってたのと違うやつ?」
「ん?昔?うちで猫なんて飼ってたことないよ」
「でもこの猫、縁側から出てきた」
「どろぼう猫ちゃんかな?勝手に入ったのかね」
「でも私、小さい頃ここの家で黒猫と遊んだ」
「ちょっと、怖い話やめてもらえます?寝れなくなるじゃん俺。夜しか」
「えー。ふしぎ」
「カスミちゃん、今夜は寿司だぜ」
「寿司はいいね」
「リリンの生み出した文化の極みだよね」
そう言ってタマおじちゃんは仏間に戻っていった。
たぶんなにかのミームなのだろうけれど、私にはよくわからなかった。
黒猫はいつの間にかどこかへ行っていた。

その夜、たらふく寿司を食べた私は夢を見た。
洞窟の奥にたくさんの人が集まっていて、私はその人たちの前で真っ白なキャンバスと向かい合っていた。
たくさんの人は祈りを捧げていた。
私にではない、キャンバスの向こうからやってくるものに対しての祈りだった。
失敗すれば殺される。
直感的に私はそれを理解していた。
私は自分のへそに手を突っ込んで真っ赤な体液を引きずり出し、キャンバスに大きな猫を描いた。
その真っ赤な猫はすぐに酸化し、真っ黒になった。
そして、私を真っ直ぐに見つめていた猫は言った。
「いつかお前は親を産む。謳歌せよ。謳歌せよ。謳歌せよ」

目が覚めると、部屋はまだ夜明けの青の中だった。
私はひどく汗をかいていた。
枕元に置いていたスポーツドリンクを飲みほしたところで、縁側からあの黒猫がこちらを見ていることに気が付いた。
私は縁側に出て
「なんだか大変な夢を見たよ」
と黒猫に言った。
黒猫は庭に降りて、少し歩いてからこちらを振り返った。
私も庭にサンダルを履いて降りた。
見てほしいものがあると言われた気がした。

庭の奥にある山桜は、朝陽に照らされて圧倒的に咲いていた。
あらゆる悲しみ。
あらゆる苦しみ。
あらゆる喜び。
それら全てを飲み込んで桜が咲いていた。
私は微笑んだ。
とても悲しかったから。
そして私はようやく曾祖母に「ただいま」と言った。

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