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小説:NOISY VOID 【2000字ジャスト】

父の牧場が嫌いだった。
私の小学生時代のあだ名は牛乳屋だった。
それについて、父が飼育しているのは乳牛ではなく肉牛だと訂正する気にもならなかった。
説明したところで、また新たなあだ名が考え出されるだけだろうと思ったから。

高校を卒業して地元を離れられる時を待っていた私は、懸命な努力を以て牧場を連想させることのないキャラクターを作り上げようとした。
しかし給料のほとんどを洋服やエステにつぎ込んで2年ばかりたった後でやっと気がついた。
一見して牧場を連想させるような容姿の女性なんて、そんなもんはそもそもいねぇのだと。

気がつくのが少しだけ遅かったのだと思う。
私はサイクルから抜け出せなくなっていた。
洋服やエステにつぎ込んでいた給料が返済とストロングゼロにつぎ込まれるようになって半年もしないうちに、私は不安と抗不安剤をプラダのバックパックに詰め込んで田舎に戻ることになった。

私が毎日部屋でぼんやりしていても、両親はなにも訊いてこなかった。
励ますでもなく、責めるでもなく、ただ何事もなかったかのように接する両親に、私はむず痒さを覚えた。
ある日の食卓で私は言った。
「借金あるんだ」
「だろうな。どのくらい?」と父が言った。
「200」
「へぇ。一括で返しちゃえ」
「そんな簡単に」
「牛一頭逃げたと思えば、なんでもねぇよ」
「牛ってそんなにすんの?」
「牛がいなくなるよりお前がいなくなっちゃうほうが困っちゃうからなぁ」と言って、父はからから笑った。
いなくなるというのがおそらく「この世から」という意味であることに気付いた私は、なにも言わずに食事を続けた。

抱えていた問題は徐々に解決しているはずだった。
しかしそれでも、私のなかにぽっかりと開いてしまった空洞のようなものは依然としてそこに在り続けた。
存在のない空間が存在し続けていることを確認するたびに、私の心は暗くなった。
この空虚はずっと私の心に陰を落とし続けるのだろうか。
これから一生このままで生きていかなくてはならないのだろうか。
一生?一生ってなんだ?

「気分転換にお父さんの牧場にでも行ってみたら?」と、ベッドで意味のない動画を観ていた私に母が言った。
「あー」と、私は曖昧な返事をした。
「天気もいいし。知ってた?天気いいのよ?」
「でもなぁ」
「あ、手伝ってって意味じゃないわよ。草の上で寝っ転がってYouTube観たら?」
「観たくて観てるわけでもないんだ」
「ツナギ貸そうか?」
「じゃあ、うん」

呼吸を止めて、少しずつ息を吸った。
私は牛舎の匂いに鼻を慣れさせながら、小さな頃も同じようにそうして呼吸をしていたことを思い出した。
そんな私を見ながら、父も同じことを思い出しているようだった。
「懐かしい匂いだろ」
「くさい」
「生きてるからな。生きてりゃくさいもんだよ」と言って父は笑った。
「でもなぁ。さすがに」
「帰ってきた頃のお前はなんの匂いもしなかったから」
私は思わず父のほうを見た。
いつも通りの笑顔だったけれど、その眼はほんの少しだけ寂しそうに見えた。

私は草の上に寝転がりながら、なにもないのも悪くないな、と思った。
青い空にはひとつだけ、吹き出しのような雲が浮かんでいた。
目の前には青い空しかない。
私の後ろには地面しかない。
あんなに虚しさがうるさかったのに、今は風の音しか聴こえない。
あまりにもあっけなく気分転換されてしまった自分に、私は微かな怒りさえ覚えた。
遠くから牛を追う父の声が聞こえた。

気がつくと、私はうたた寝をしていた。
なにも飲まずに眠くなるのは久しぶりだった。
眩しすぎるせいか睡眠と呼べる程の眠りではなかったけれど、私は短い夢のようなものを見た。
まぶたの裏ではせわしなく光が明滅していた。
光の濃い部分と薄い部分があり、濃い部分を目で追うとそれは逃げてしまった。
それを追ううちに、いつしか私は私の空洞の中に浮かんでいた。
なにもない空と地面の間で、私はもっとなにもない私の空洞に浮かんでいる。
それは不思議な感覚だった。
とても特別なことのように思えたし、とても当たり前なことのようにも思えた。
空洞は虚しさで生じたのではなく、はじめからそこにあったのだ。

ふと、首筋にちくりとした刺激を感じて私は飛び起きた。
反射的に首筋を押さえた手のひらを見ると、蟻が死んでいた。
唐突に開いたせいでなかなか焦点の合わない目で地面を見ると、地面はちらちらと動いているように見えた。
そこには無数の小さな生き物たちがいた。
「え、グロ」と、私は思わず呟いた。
私はなんだか笑いたくなったので、笑った。
「なにもないなんて思ってごめんよ」と、私は蠢く地面に向かって言った。

陽が翳り、風が冷ややかになるまで再び地面に寝転んだあとで、私は牛舎にある事務所のドアを開けた。
父は机に向かって書き物をしていた。
「牧場継いでほしいひとー?」と、私は父の背中に言ってみた。
「はーい」と言いながら、父は背を向けたままで手を挙げた。

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