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私がベトナム料理屋「フジマルサイゴンプロパガンダ」を始めたワケ(1)

ベトナム料理屋「フジマルサイゴンプロパガンダ」の企画、立ち上げからもうすぐ3年が経とうとしています。

店舗で調理をしていると、お客さまから、
「どうしてベトナム料理の店を始めたのですか?」
と毎日のように聞かれます。

私だけでなく娘やバイトのナナちゃんもあまりに質問されるので、
「いい加減にママ、店の成り立ちをnoteで説明して!」とついにお叱りを受けました(涙)。

なのでプロパガンダが出来るまでの長い道のりについて、お話することにします。

きっかけは1971年。南武線発火装置事件。

川崎市の南部に位置する中原区で生花店の次女として私は生を受けました。
1971年の秋、生花店で店番をしながら新聞を読んでいた母が、顔を上げて小学校1年生の私にこう告げました。

「南武線に爆弾が仕掛けられたらしいよ」

3両編成の南武線支線(浜川崎線)

南武線というのは、プロパガンダのすぐ裏を走っている川崎市民の足として親しみのある電車です。
JRになってからは、黄色の車体がトレードマークとなっていますが、国鉄当時はチョコレート色の車体に木製の手すりと床貼りがほどこされているレトロで風情のある電車でした。

漫画の中でしか知らなかった「爆弾」が、いつも利用している南武線に仕掛けられたと知った7歳の私は、
「ついにここまで来たかー」
と興奮したのを憶えています。

その頃、テレビや新聞ではベトナム戦争や学生運動の話題が連日取り上げられていて、反戦活動は多くの若者のトレンドだったと推測します。
おマセだった私は子供ながらに大人達の話題を盗み聞きし、若者達が社会に反発する空気感をなんとなく感じとっていました。

今回noteを書くにあたり、子供の頃の記憶にある「南武線爆発物事件」は実際にあったのか、川崎市公文書館のご協力を得て検証してみました。

当時の朝日新聞神奈川版には、「1971年10月9日、南武線矢野口第三踏切に何者かが発火装置を仕掛け、渡し板が炎上。通過中のアメリカ軍用ジェット燃料輸送列車(貨物列車)が標的となった」とありました。

ほほー。当時の私の記憶は間違っていなかった!」

三つ子の魂百までのことわざの通り、ベトナムへの関心の高さは、強烈な印象を受けた7歳の頃につちかったのだと再確認しました。

高校紛争が盛んだった川崎市

1969年あたりから地元の県立川崎高校(最寄駅は、南武線浜川崎駅)では、制服や定期テスト、生徒会の廃止を訴える学生運動が盛んで、反戦を掲げて100名以上の生徒がデモに参加するなど度々、新聞の地方版に取り上げられていました。

南武線発火装置事件が起きた同年1月には、生徒有志による職員室の封鎖が行われ、機動隊が学内に入るほど紛争は激化していきました。運動に疲れた同校の女子生徒が京浜急行八丁畷駅で飛び込み自殺をする悲しい事故も起きました。

川崎を南北に走る南武線一帯地域が、ここまで非常事態に落ち入る原因は一体何だったのでしょうか?

南武線は武器輸送貨物鉄道だった

1927年に開業した南武線は、もともと多摩川で採掘した砂利の運搬線でした。

鉄道の沿線には、太平洋戦争当時、軍需兵器工場が次々と建設されて、川崎は1940年には人口31万人を超える「工都」として膨れ上がりました。

川崎区の工場へ向かう人々

つまり当時の南武線は、軍需製品を運ぶ貨物鉄道の役割と、軍需工場で働く労働者を運ぶ普通鉄道の2つの役割を担っていたのだと思います。

中原区木月にあった軍需工場ポスター

太平洋戦争終結後、閉鎖や米軍接収に迫られた工場も1950年代に入ると再稼働し、朝鮮戦争特需で活気(?)を取り戻しました。
さらに1960年代後半からはベトナム戦争のための軍需物資や武器を立川にある米軍基地へと南武線を利用して運搬するようになりました。

県立川崎高校の有志達は、自分達が通学に使う南武線が人殺しに加担する道具になっていることに疑問を抱きはじめます。
同じ理由から通学で南武線を利用していた県立多摩高校や都立立川高校の生徒達も反戦活動を激化させていきます。

米軍燃料輸送爆破事故と新宿騒乱

その背景にあるのは、1967年8月未明に起きたある事故です。

新宿駅構内で深夜、浜川崎駅から立川駅に向かう貨物列車と氷川(奥多摩)駅から浜川崎駅に向かう貨物列車同士が衝突し、30メートルもの火柱が立つほどの大爆発後、新宿大ガードから中野駅方向へ100メートルに渡り炎上しました。

怪我人や死者は幸いなことに出ませんでしたが、その貨物列車にはベトナム戦争で使用するジェット燃料がタンクに積まれていたことが発覚しました。

新宿駅に書かれた落書き 1968年

この事故が起きるまで、旧国鉄と米国との間で秘密裡に交わされたジェット燃料輸送貨物について一般市民は知る由もありませんでした。

しかし、この事件を機に東京や神奈川の住宅街を走る国道や鉄道を利用し、ベトナム戦争の爆撃に使用されるジェット燃料や戦車が日米安保条約の下、運搬されていることが白日のもとにさらされました。

横浜市神奈川区で戦車の前に立ちはだかる市民 朝日新聞

「新宿騒乱」と呼ばれる1968年の国際反戦デー(10月21日)に起きた暴動に参加した学生達のスローガンは、「反ベトナム戦争」と「米タン(米軍タンク)輸送阻止」でした。

野次馬2万人、742人の逮捕者を出した国内最大のデモに参加するため、全国から2000人以上の学生が新宿駅に終結します。逮捕者の中には、地方から来た若い教師のグループも含まれていました。

機動隊から逃げまどう学生をスーツ姿のサラリーマンがかくまうなどのエピソードも多数目撃されていることから、活気盛んな学生が大人の代弁者だった背景もうかがえます。

しかし、長く続いたベトナム戦争の終結と共に市民や学生の反戦活動はおのずと下火になっていきました。

現在の川崎はどうなっているのか?

2022年3月現在、JR武蔵野貨物線(横浜市鶴見駅から千葉県西船橋駅)の路線駅、梶ヶ谷貨物ターミナル駅(川崎市宮前区梶ヶ谷1390)には、ジェット燃料を積んだタンク列車が今日も、日々通過しています。

一見、平穏に見える私達の生活には、「戦争」の2文字が隣接しているのだと感じています。
 有事の際には、いつでも牙を剥く恐れがあるのだということを忘れてはならないと思います。

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プロパガンダのある川崎市高津区溝の口は、過去から現在に至る過程でこんな事があったのだと少しでも興味を持っていただけると嬉しいです。


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