余談「はじめて監督をしたときのこと」
青天の霹靂
僕がはじめてアニメの監督をしたのは2005年10月8日放映の『BLOOD+』という作品でした。
(ほんとは10月8日にアップしようとしたのですが間に合いませんでした)
2004年の夏の終りに別件で押井さんのうちに行くことがあり、その流れで社長と伊豆のホテルに泊まったことがありました。そのときなぜかアニプレックスの落越(当時のクセで呼び捨てにしてしまいます)が呼び出され、
「藤咲を男にしてやってくれ」
と言ってたような言わなかったような。
そこで僕が監督をやる流れはほぼ決まったような感じでした。
当時はまだ『ももへの手紙』(沖浦啓之監督作品)の脚本を書き始めていた頃で、僕の監督が決まったことで継続が難しくなり、沖浦監督に脚本を預けることになったことがとても申し訳なかったなと……。
同時にゲームスタジオのリーダーもしていた頃で『ミニパトPSP』のシナリオもやっていたので、こちらは現場にほぼ仕事は任せて僕は『BLOOD+』に絞り込んで仕事をするようになっていきました。
MBSの竹田青滋さんを中心に、企画を練り始めたのが2004年10月頃。
放映一年前に企画が立ち上がった感じでした。
僕自身が監督でもあり、シリーズ構成も兼ねていたために、基本的な業務は構成として『BLOOD+』というオリジナルの物語を作り出すことと、監督の責任として無事に着地させることまでを任されたということで責任重大でした。
監督と言っても僕はアニメーションの現場に入って仕事をしたことがありません。
さすがに作画監督がなにをして演出さんがなにをして――という知識はやるドラ通して理解はしていましたが、やはり外の人間という立ち位置だったかもしれません。
はじめてのスタジオ
監督という立場になると、現場をひとつ任されるということで、部屋を仕切るプロデューサーと二人三脚で事を進めなくてはなりません。
とはいえ、監督には監督の、プロデューサーにはプロデューサーの思惑があり、そこら辺をどうやって築いていけばいいのか最初は苦労していました。
なにせプロデューサーとなった人間も初めての抜擢だったはずなので、外から見れば非常に危うい現場だったかもしれません。
僕自身、内容に関しては局のプロデューサーなどと話して進めて行けばいいと自分自身のオリジナリティよりも現場を任された以上、最終話まで走り切ることをまず頭に置きました。
更にオリジナル作品であり、露出情報が少ない。
アニメの情報は、話数ごとの感想などがブログなどでアップされていたり、2ちゃんねるが主流だった頃だったので、youtubeのような動画系は少なかったためニュータイプなどの雑誌露出が効果的な時代でした。
だったらアニメの主要三誌(ニュータイプ、アニメージュ、アニメディア)に版権を載せ続けることが一番刺さるのかなと思い、版権が来ても断らないようにとお願いしました。
うちの会社は映像に全力を傾けて制作するため版権など断ることが割と多い会社でした。
映画など、一発勝負な作品はそれでよいのかもしれません。
ただテレビは視聴者を巻き込んで市場を成長させなければなりません。
だからこその露出。
作品ができる前からとにかく僕らはお客さんを向いて仕事をすることを感じなくてはならないと腹を据えたのでした。
おかげさまでプロモーションに関しては、土6の枠の効果もあり、東京大学安田講堂で制作発表をしたり、大阪城フェスで初映像公開したりといろいろと仕掛けてもらったお陰で期待値はあがっていたと思います。
残るは監督である僕自身が制作陣を指揮して前に進むだけでした。
演出チーフ
普通、監督なら第一話の絵コンテをきり、作品全体の方向を示さなくてはなりません。
ただ僕は仕事で絵コンテをきったことがありません。
(自分が担当したゲームではちょっとだけ手伝ったことはあるけれど、シーンレベルでの絵コンテだったりします)
シリーズ構成も初体験で、とにかくシナリオをまとめあげること、先のストーリーや設定を作り上げることだけで手一杯で、演出面まで手が回らないというのが現実でした。
プロデューサーが連れてきてくれた松本淳さんがいてくれなかったらたぶんどうにもならなかったかもしれません。
僕と松本さんは背中合わせに座りながら、スタジオの奥の方で一緒にしていました。
僕がシナリオを直し、松本さんが絵コンテを書いたり、直したり。
途中から僕も絵コンテ修正には加わるようになりました……というか2話目から直してはいたので一話以外はほぼやっていたかもしれません。
演出の肝となる部分を松本さんに、作品イメージからずれそうな部分や初めてのキャラが出る部分などは僕が少しだけ絵コンテに手を入れていたと思います。
ほぼ直した話数もあったりしますが、僕自身、松本さんのレイアウトが好きだったので絵作りに関してはほぼ任せていました。
彼の描く小夜はとにかくかわいい。
というか彼自身が「小夜を幸せにしてあげたい」と最後の頃はずっと言っていたので僕以上に気持ちが入っていたのかもしれません。
そしていつも頭にタオルをのせて悩んでいた姿が記憶に残っています。
番組が始まって
あの頃の一週間を振り返ると、
月曜日:会社で作業
火曜日:アフレコ
水曜日:脚本打ち
木曜日:ラッシュチェック
金曜日:カッティング
土曜日:ダビング(
日曜日:休み
という一週間だったと思います。
日曜日が休みといっても、奥さんと買い物に行く以外はほぼ脚本や絵コンテの修正に時間を費やしていたような気がします。
息抜きできたのは、途中から(25話前後)アフレコとダビングが同日に行われることになり、そこで作業から解放される時間が2~3時間くらいあったので、四ツ谷から新宿あたりをぶらぶら散歩していました。
収録スタジオが御苑のそばだったため、御苑にいったり、足を伸ばして新宿や四ツ谷の駅前まで行ったり。
普段は歩かないような裏通りを歩いてはいろんな発見をしていた頃です。
とにかくひとりになって頭の中を整理する時間。
それが必要な時期でもあったように思えます。
帰りが朝の4~5時になることもあり、会社に駐車場を借りてもらって車で通勤もしていました。
制作進行の子に送ってもらうことも考えたのですが、彼らは彼らで忙しいので、車で片道20分の道のりをひとりで運転しながらNACK5を聞くと言う時間を過ごしていたと思います。だいたいが深夜帯、鬼玉を聞いていたような気もします。
そこから流れる曲とかで気になったものを、国分寺のマルイでよく買っていました。
仕事中の音楽は最初の頃はポータブルCDで、そのあと、SONY WALKMAN NW-A1000を愛用していたので、そこに買ったCDを手当り次第ぶちこんで聞いていたと思います。
ACIDMANとフジファブリックとチャットモンチー、ラルクに佐野元春と月に4~5枚CD買っていた頃でもあったので気に入ったものをひたすらループしていたかもしれません。
とにかく孤独な時間。
これを音楽とともに僕は乗り切っていたような気がします。
監督はひとり
企画が動いたとき、僕はひとりでした。
企画に描かれる物語の設定を考えていた頃でした。
そして番組が終わりに近づくと、制作スタッフたちは次の作品へとシフトしていきました。
設定さんも、脚本家たちも、演出さんも、どんどん離れていって、結局最後まで残ったのは第一話をはじめた頃と同じ人間たちだけ。
そんな空気に、最終話の『語り継ぐこと』が刺さりました。
そして二週間ほどの休みをもらい、沖縄に「ありがとう」を言いに行ったことで僕の監督としての役目がようやく終わった気がしました。
というかそのあとの打ち上げで挨拶したのが最後の仕事だったかもしれませんが気持ちの中では旅行にいった沖縄で終わったような感覚でした。
周りを観ても誰も残らない。
「ああ、結局監督ってのはひとりなんだな」と思ったのが監督という仕事を約二年ほどやっての感想です。
ただ、経験のない仕事でも腹さえ括れば、だいたいのことはなんとかなると体験できた時間でもあったので、今も物を作り続けていられるのでしょう。
以上、本日の余談でした。
では次回の余談もお楽しみに――!
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