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【天気の子レビュー】〜あなたは誰のための人生を生きるのか〜


2019年7月19日新海誠監督、第7作目となる『天気の子』が全国で公開された。前作、『君の名は。』から3年、今回の新海誠の映画『天気の子』から得た筆者の思いや解釈を独自の目線で記録していこうと思う。
※途中、ネタバレ等もあります。鑑賞前の方、ネタバレを観たくない方は鑑賞後ご覧いただけたら幸いです。

新海誠の世界観

新海誠監督をご存知だろうか。
新海誠監督の作品の特徴といえば、美しい景色の描写と光の演出、そして思春期ならではの男女の繊細な心情を表した作品といえるだろう。
誰もが1度は経験したことのあるような、思春期ならではのとても美しい未完成な心情とそれに匹敵する思わず息を呑んでしまうほど美しい景色の描写の数々は見るたび心が浄化されていく。まるで大人になって忘れかけていた感情を蘇らせてくれる魔法のような世界観。それが新海誠監督の世界観である。

本人いわく「思春期の困難な時期に、風景の美しさに自分自身を救われ、励まされてきたので、そういう感覚を映画に込められたら、という気持ちはずっと一貫して持っている」といった旨の発言をしている。
出典:Wikipedia

『天気の子』に散りばめられたひっそり隠れた現代の闇

新海誠監督の新しい挑戦を感じた今作、『天気の子』では新海監督が今まで使ってこなかった純粋さとかけ離れた家出、風俗、銃、ラブホテル、警察との対立などの刺激的なアイテムがいくつも散りばめられていた。

帆高の過去よりも未来に焦点を当てた?

まず主人公帆高(以下帆高)が離島から家出をしフェリーで東京に向かうところから物語は始まる。家出といっても高校生の反抗的な家出程度だろう。そう思っていたのだが見事に打ち砕かれた。
しかし、結局のところ最後まで帆高がなぜ家出をしたのかという真意には触れられていない。ただ地元には帰りたくない、実家にいると息がつまる、居場所がないという事だけが明かされている。
少し説明が足りないような気持ちになったが、帆高の過去の負の部分ではなく、運命の人陽菜に出会って自分の正直な気持ちのまま生きていく、自分の人生を自ら選択をするという未来にスポットを当てたのだと思えば細かい説明など不要にも感じる。

自分たちの居場所とは

 陽菜は母親が亡くなった以降、弟とふたり暮らしだ。18歳と嘘をついていたが実際は15歳であり、帆高と初めて出会った時はマックのバイトをしていたが、クビになり生活のために風俗のアルバイトを迷っているところ、黒服の男に無理に勧誘されているのではと勘違いした帆高に連れ出され運命の再会を果たした。

居場所がないという理由だけで家出をしたり、15歳で弟とふたり暮らしなんて少し非現実的すぎるのではないか。無理があるのではないか。そう思ってみていたが、この感覚こそがまさに現代社会に隠れている闇なのかもしれない。
昨今、ニュースを観ていると信じられないようなニュースばかりが流れてくる。2019年もまた未成年の自殺死亡率が最悪になったらしい。
劇中でも「君は帰る場所があるんだから帰りなよ」という陽菜対して
「ううん。俺は絶対に帰らない」という穂高の一貫性。
真夏の雪が降るという異常気象が天気の夜、家にも帰れず、警察にも追われ、やっと大金を支払い帆高と陽菜と陽菜の弟と3人で泊まったラブホテルで、穂高は神様に祈る。
どうか、どうかこのまま変わりませんように。この幸せがずっと続きますようにと。
家があるからといってそこが本当に帰りたい場所ではないのかもしれない。
家族が居ても、もしかしたらそこを自分の居場所と感じなければ苦しいのかもしれない。
第三者から見れば、明日の生活も見えない3人の状況は幸せとは思わないだろう。しかしみんな幸せそうに描かれているのだ。
やっと、自分の居場所を見つけたかのように。

天気の子から推測した現代の闇とは

人は誰しも誰かに必要とされ自分の生きる上での役割を感じ生きていきたいと強く願う生き物ではないか。
そして、また自分の中の普通や当たり前の出来事や生活が他人にとっては決して普通や当たり前ではないのかもしれない。
そういう事を、非現実的だと捉え、誰かのSOSに気づかない事、それそのものが現代社会の闇ではないだろうか。


世界は元々狂っているのだ

誰を基準に狂っているというのか。
観測史上はいつからの観測なのか。
考えさせられる言葉だった。

人柱となり消えてしまった陽菜を迎えにいく帆高は大きな決断をするシーンで帆高は叫ぶ。「天気なんて狂ってていいんだ」と。

帆高が陽菜を諦めれば、東京は雨が止み多くの人間は喜んだだろう。しかし帆高は天気なんて狂ってていい、陽菜の命を選ぶという決断をしたのだった。
誰にとっての幸せを選ぶのか、それは生きていくうえでの永遠のテーマのような気がする。
世界を敵にまわしてでも陽菜の命をとる、一緒に生きていきたいという帆高の強い思いそれは果たして悪いことなのだろうか。
わがままなのだろうか。

何かを決断する時、大切な人を守る時犠牲を払わなければいけなくなることがある。
しかしそこで屈してはいけない。世間という大きなものに負けてはいけない。世界は元々狂ってるんだからそんなに気にすることはない。
そんなメッセージが込められているように感じた。

君にとっての「大丈夫」になりたい

今作もRADWIMPSが全面的に楽曲提供をした。
ラストシーンでは帆高が陽菜に会いに行くと、雨が降っている中もう晴れ女の力を失っているにも関わらず陽菜は祈っている。
そして帆高は「陽菜さん、僕たちは大丈夫だ」といってエンディングを迎える。

何が大丈夫なのか、その唐突な終わり方に多少戸惑ったがRADWIMPSの大丈夫の歌詞から考察すると納得できるのだ。

取るに足らない 小さな僕の 有り余る今の 大きな夢は
君の「大丈夫」になりたい 「大丈夫」になりたい
君を大丈夫にしたいんじゃない 君にとっての 「大丈夫」になりたい

Source: https://www.lyrical-nonsense.com/lyrics/radwimps/daijoubu-movie-edit/

帆高は大勢の晴れを望む声を無視して自分の幸せである陽菜を選んだ。やはり筆者はこう思う。誰のための人生なのか。帆高は大勢の大丈夫になりたいわけじゃない、陽菜にとっての大丈夫になりたいだけなのだ。

大人になると世間体を気にして自分の声を失いがちだ。批判させるのは怖くて黙って我慢する選択をすることが多々あると思う。
しかしどうだろう。その犠牲を払って手に入れた何かは本当に大切なものなのだろうか。

天気の子感想まとめ

新海誠監督のインタビュー記事を映画が見終わった後で読んだ。
1番衝撃的だったのは前作『君の名は。』を観て批判した人にもっと怒られたいというインタビュー記事だった。

今作は最初から注目を集めている。「君の名は。」を批判した観客も見るだろう。
「彼らが怒らない映画を作るべきか否かを考えたとき、僕は、あの人たちをもっと怒らせる映画を作りたいなと。人が何かに対して怒るのはすごく強いエネルギーが必要で、『君の名は。』は少なくとも何かを動かしたわけです。そういう気持ちが『天気の子』の発想につながっていった」

出典:サンスポ記事一部抜粋

この記事を書くにあたり、『天気の子』を観てどう感じるかを調べた時に、本当に十人十色、様々な解釈や意見、賛否両論があるもんだな〜と思った。やはり、新海誠監督の願い通りになったなとも思った。まるで新海監督の手の中で転がされている、そんな気分だ。

この映画が良いとか悪いとかではない、ここの場面がどうだ、ここはありえない、それもまた良いのだと思う。

大切なのは自分がどう感じるかそれが全てではないだろうか。
良いとか悪いもんじゃないだろう、映画も人生も。

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