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自分のキャラクターに一貫性がないことを気にしなくなったらめっちゃ気楽になった話

人間、それぞれ色んな一面があると思いますが、僕がはっきり言語化できるキャラクターとして持っているのは、認識している範囲で5つ。

①中学生時代
②高校時代
③大学時代
④前職時代
⑤現職&Twitter上

フワッと存在していて自然に使い分けているけどうまく言語化できないキャラクターも含めると、多分もっとあるはず。

そんな一貫性のない自分にとって「本当の自分」ってなんだろうって苦しく思うことが多かったんですが、自分のキャラクターに一貫性がないことを気にしなくなったらめっちゃ気楽になったんで、今回はそんなお話です。

以下「ここから本題」ってとこまでは自分語りなので、読み飛ばしてもらって大丈夫です。

--- 前段 ---

①中学生時代

当時、千葉県浦安市の小中学校に通っていたんですが、うちの中学は学区的に1つの小学校からしか進学しないため、実質一貫校みたいな感じでした。なので、人間関係は大きくは変わらず、(主に5,6年生くらいのときの)小学時代のキャラクターがおおよそ中学に入ってからも続いた形になります。

サッカー少年で、中学時代はレギュラー。勉強面でも、内申は40を超え、テスト結果も学年で五指に入るくらい。偏差値も70弱。

いわゆる優等生キャラです。

一方で、スクールカースト的には、特に目立つタイプではなく、特にモテもしませんでした。「なんでみんなそんなに恋バナ好きなんだ?」ってくらい恋愛には無頓着で、恐らく思春期まっただ中って感じの少年ではありませんでしたね。好きな子、居なくはなかったですけどね。

一人称は「僕」、あだ名は「ふっちゃん」でした。

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▲ 左サイドハーフでレギュラーだった中学時代のふじじゅん。

②高校時代

中学時代、内申がやたら良かったので推薦入学で明学へ。

思春期に本格的に突入したのか、身だしなみにも気を遣うように。俗に言う「高校デビュー」ですね。初めて買ったファッション雑誌はCHOKi CHOKi。クールグリースでソリッドにキマったヘアスタイルが奈良裕也さんがやたら印象的でした。なつい。(ちなみに高校卒業前くらいにCHOKi CHOKiにカットモデルとして載った逸話があります。ふふ。)

サッカー部でまぁまぁ活躍していたのと、クラスでも表に出るタイプのグループにいたこともあり、いわゆるスクールカーストでいうと上位。その中でも、キラキラキャラかといえばそうではなく、背が低いことに加えて「彼女いない歴=年齢」「インターネット好き、2ちゃんねらー」などの属性から、よくイジられていました。

ツッコミというよりはボケで、その中でもストレートに笑いをとるというよりは、スベり芸。狙ってスベるのと、そのスベりを笑いに変えるのはそれぞれ結構難しいです。それだけはハッキリ言えます。

部活では真面目で、「サッカー部のレギュラーかつ副キャプテン」だったのにモテなかった。なぜなのか。とはいえ、そこに加えて「彼女いない歴=年齢」というステータスからもわかるように、当時はとても純情でしたね。

そんなこんなで、ちょっと変だけど愛すべき一面もあるマスコットキャラクター的存在だったのではないでしょうか。

あだ名は「じゅん」、先輩は「藤田」、後輩は「藤田先輩」「藤田くん」。

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▲ 高校時代のふじじゅん。サッカー部の面々と。

③大学時代

内部進学なので、半分くらいは高校時代のキャラクターがベースですが、もう半分はものすごくバラエティに富んでいたかも。

大きく変わったのは20年続いた真面目キャラの崩壊。

大学1年の時に初めての彼女ができて以降は、ちょこちょこモテ期がくるようになったことに加え、大学そっちのけでクラブに入り浸ったり、プロ野球観戦に行きまくったりで単位を落としまくってしまった(まわりの友だちは、代返やノートの貸し借りで、授業受けてなくも単位だけはちゃっかり取っていた)。また、就活も失敗し、たぶん100社くらいエントリーしたけど無い内定で卒業。

仲良かったメンバーの間では、結構「イケてないヤツ」「要領悪いヤツ」の印象があったんじゃないかと思います。

あだ名は「じゅん」、先輩は「じゅん」か「ふじじゅん」、後輩は「じゅんさん」。

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▲ クラブ帰りに道玄坂で浮かれてたふじじゅん。The Pharcydeの「Drop」のMVっぽい写真が撮りたかったんだと記憶しています。

④前職時代

大学卒業後はフリーターとして1社、その後零細スタートアップでSNSの運用代行やオウンドメディアでのライターを経て前職へ。

当時社員数60人程でしたが、ウェブメディアを数十媒体運営しているため、1媒体に営業と制作が1人ずつ居るか居ないかの体制だったため、ほぼ個人事業主のワンオペって状態。

月に200本弱の記事に携わり、土日祝日はもちろんGWだろうが年末年始だろうが、基本的に毎日記事を複数配信するため、1日も心休まる日がなかったのを覚えています。

比較的早い段階で頭角を現せたため、当時の注力媒体の制作リーダーに抜擢され、メンバーも数人抱えるように。比例して責任も重大になったことで、疲労もストレスも肥大化した結果、十二指腸潰瘍に。1ヶ月酒を一切飲めなかったんですが、今考えると良く断酒できたな……。

この頃は、仕事に関していうと真面目だったけど人生で一番ピリピリしていたので、メンバーへの当たりも強かったかもと反省しております。

あだ名は、同僚や後輩は「じゅんさん」か「じゅんじゅん」、先輩は「じゅんくん」。

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▲ なんかの媒体で使った素材のふじじゅん

⑤現職&Twitter上

これは僕のTwitterやnoteをご覧いただいている方はおわかりいただけるかと思いますが、基本的にゆるふわキャラです。あと最近はあざとい。このへんは仕事面でも変わらないかな〜。なので詳しい説明は省きます。

前職時代と違って、怒ったりピリピリしたりすることも滅多にない、はず。

酔うとたまにエモくなるのも、二郎やフットサルが好きなのも、仕事とTwitterで変わらないですね。(仕事とは)

あだ名は、「ふじじゅん」。

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▲ Twitterアート集団「ツイパ」の一員としてのふじじゅん

--- ここから本題 ---

キャラクターが同時に複数存在しうるからこそ苦しんだ

苦しいポイントは2つ。

まず1つ目は「どれが本当の自分なのか」がわからない苦しさ。

2つ目に、割とこれまでの人生のタイムラインに沿って色んなキャラクターができて、それが並行して存在してきたからこその苦しさ。

「キャラクター」が、属するコミュニティでの影響を大いに受けるものと過仮定すると、属するコミュニティ自体が存在する限りは、色んなキャラクターが同時に存在しうるということになります。

中学時代のキャラクターと大学時代のキャラクターはどちらも同時に存在する。でも、どちらも全然別物。真面目な優等生だった中学時代の「ふっちゃん」と、放蕩者だった大学時代の「じゅん」とでは全然別人なんですよ。

もし中学時代の友人と大学時代の友人が同じ場に居たとして、自分はどちらのキャラクターを選択するのか。あるいはまったく新しいキャラクターになるのか。

何が「本当の自分」なのかがわからない。もしその人が知らない僕のキャラクターを表に出したら、「猫かぶってたの?」とも思われるかもしれない。

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▲ 猫とふじじゅん。

苦しみから解放してくれた「分人」という考え方

僕(あるいは俺)にとって「本当の自分」が何のかについて、つい最近までモヤモヤしていたんですが、僕の師匠ともいえる友人が「分人」という平野啓一郎さんが提唱する考え方について教えてくれたんです。

私たちは、日常生活の中で、当たり前のように多種多様な自分を生きている。勿論、妄想的に、勝手に分裂するのではない。常に、相手次第、場所次第である。
職場の上司といる時と、気の置けない友達といる時とでは、決して同じ人間ではない。
当たり前の話だ。しかし、環境によって容易に変化する自分というイメージが、個性的に、主体的に生きる自分という固定観念と矛盾を来すためか、私たちは、この事実をなぜか軽んじ、否定しようとする。

「もちろん、色んな顔は持っている。けど、それはそれ。表面的なことであって、〈本当の自分〉は、ちゃんとある。」
そして、その肝心の〈本当の自分〉が何なのか分からないことに思い悩み、苦しんでいる。実のところ、私自身がずっとそうだった。

(中略)

諸悪の根源は、「個人」という概念にある。
私たちは、「個人」の価値を疑うことなく信じてきた。ところが、語源にまで遡ってみると、どうもこの「個人」には疑わしいところがある。

元々、「個人」とは、英語のindividualの翻訳で、明治になって日本に輸入され、翻訳された洋物の概念である。individualとは、「分ける」という意味のdivideに否定の接頭辞inがくっついた単語で、語源のラテン語では「分けられない」という意味だった。
それがどうして、一人の人間を指す「個人」という意味に変化したのか?

(中略)

もう、そろそろ良いんじゃないか。もっと、私たちの現実に即した、新しい概念を基準に、自分のこと、他人との関係を考え直すべき時ではないか。そこで、私が考えたのが、individualから否定の接頭辞inを取った「分人dividual」という概念である。「分けられる」という意味だ。

一人の人間には、色々な顔がある。つまり、複数の分人を抱えている。そのすべてが〈本当の自分〉であり、人間の個性とは、その複数の分人の構成比率のことである。

『私とは何か---「個人」から「分人」へ』著者:平野啓一郎 ~諸悪の根源は「個人」~ より引用

真面目で優等生だった「僕」や、ダラけた放蕩者の「俺」。どちらかではなく、どちらも「本当の自分」なんですよね。

体を壊すほどハードに働く自分も、その反動でゆるふわキャラとして働く自分も、どちらも本当の自分。

いつもスベってるイジられキャラの自分も、飲み屋で二郎について熱弁する自分も、人前で登壇しトークする自分も、全部本当の自分。

どれをとっても、決してよそ行きのキャラクターを装ってるわけじゃない。

それに気づいてからというものの、キャラクターに一貫性がないことを気にしなくなり、めっちゃ気楽になった気がします。

「こんなこと言ったら驚かれるかもな、変に思われるかもな」「これは本当の自分ではないかも」って、キャラクターに縛られて言うのをためらっていた意見だったり、見せるのをためらっていた一面も徐々に出せるようになったんですよね。全部が全部じゃないですけど。

これまで分断されていた「分人」(dividual)が融合して、また新たな個性/キャラクターが生まれてくる感覚は31年間経験してこなかった分、とても新鮮。

もし似たような悩みを持つ方がいらっしゃたら、この考え方で少しでも気楽になったら嬉しいです。


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