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『コ・デザイン デザインすることをみんなの手に』(上平崇仁著、NTT出版、2020)を読んで。

本書はデザインに関する新しい古典となりうる一冊じゃないだろうか。
実はもう数ヶ月前に読んだ本なのですが、読み終えた後、清々しい気持ちで本書を棚に置いたことを思い出す。
デザイン(デザイン思考)に関する本をこの数年、いくつか読んできたが、これほどわかりやすく、且つ深くまとめた本はなかったのじゃないだろうか。デザイナーではなく、ノンデザイナーの方でも読み進められやすい一冊でありながら、今後の思索を深めるのに最適な一冊だと思う。
デザインについて学びたい、知りたい、実践で使いたい、という方のために最初の一冊目としてお勧めしたい本。

北欧視察後に本書を紹介する方が自分にとっても気づきがあるだろうと考え、改めて読み返してみました。以下、本書から気になった箇所を抜粋させていただきつつ、私なりのコメントを添えていきたいと思います。

ひとは誰でもデザイナーである。ほとんどどんなときでも私たちのすることはデザインだ。デザインは人間の活動の基礎だからである。ある行為を、望ましい予知できる目標に向けて計画し整えるということが、デザインのプロセスの本質である。
(中略)
パパネックが警告を鳴らしたのは、大戦の後、ますます華やかになっていくアメリカ型の大量生産・大量消費の文化を、まるで促進させるかのような役割へと変化したデザインのあり方でした。これをデザインと呼ぶならば人類は滅びるぞ、とほのめかし、生き延びるためのデザインはどうあるべきか、デザインの方向性を見直しつづけること〈脱・デザイン〉こそが大事なのだ、と力説しています。

(p54-55)

有名な箴言に、「ハンマーを持つ人には、すべてが釘に見える」というものがあります。本当はネジかもしれないのに、よく吟味することなく自分の手持ちの道具だけで対処しようとしてしまう。あるいは、持った威力を確かめたいという好奇心から何かを叩き潰してしまう。そんな都合の良さや単純さを戒めています。この言葉は、正しくデザインに当てはまるものです。デザインすること自体は、決して銀の弾丸ではありません。

(p59)

冷戦期の社会情勢として、北欧の人々のあいだには格差や貧困を解消し平等を志向していこうとする社会民主主義の思想が広まっていました。そういった背景をもとに、労働者たちは「私たちの働く場なのだから、私たちにも決めることに参加する権利があるはずだ」と主張し、異議申し立ての運動を行ったのです。(中略)
しかし、この対立を文字通りの対立構造としてとらえなかった人々がいました。デザイナーたちです。彼らは、いくつかの先端的な学問の知見を参照しながら考えました。双方の視点を取り入れることで、働きがいがあり、かつ生産性も上がるような職場環境、ひいてはより理想的に力をあわせて生きることができる社会をデザインできるはずだ、と。対立する出来事を別々の問題として解決するのではなく、高い次元で統合することを試みたのは、素晴らしい姿勢だと言えるでしょう。彼らは経営者と労働者の距離を縮め、双方のパートナーシップを形成するために、積極的に現場に介入しました。そこで対話を起こし、参加を促す仕掛けとしてツールやゲームを開発します。双方の文脈をテーブルの上で見えるようにして答えを模索していく中で、それまでのやり方とは異なった新しいデザインの進め方を生み出していったのです。これらは当初スカンジナビアン・アプローチと呼ばれ、後に「参加型デザイン(Participatory Design)」という名前がつきます。

(p116-118)

北欧に過日視察してきてデザイナーの役割が多岐にわたっていることを見聞しました。まちづくりにデザイナーが中心的な役割で関わっていることもあれば、国や自治体の政策づくりにデザイナーが深く関与していることもあります。(単にウェブサイトやレポートの体裁を整えるデザインではなく)

参加型デザインの発想がイノベーションを生み出しているのは、先日書いた記事の通りです。

障害者や高齢者を含めて人間が等しく生きるノーマライゼーションの理念が生まれたのも、近い時期の北欧(1950年代のデンマーク)です。

(p119)

「協力しあった者が、生き延びた」。

(p129)

ものごとの見え方は、見方次第で変わります。デザインされた結果は、ある地点で総括的に切り取って測れることだけではありません。変化し続けるものごとの場合には、継続する中で見えてくることも多々あり、違う評価軸が必要になります。その評価軸は普遍的なものではなく、社会の中で構成されるものです。簡単に切り取れない結果以外の「全体」についても、多角的にふりかえることが重要になります。(中略)
時間をかけ、作業のペースを遅くしてでも多様な利害関係者との接点をつくり、「不断に」行われる社会そのものの活動として扱うべきであるということです。

(p134)

多様であるということは、なぜイノベーションを生むのだろう。参加型デザインはその前提を所与のものとして議論していますが、それはイノベーション(新たな付加価値の創造)は多様性ときってもきれない関係性にあるからなんだろうと思います。この辺りは、次回以降に取り上げようと思う書籍に記載されていますので、そちらに譲りたいと思います。ここでは、「協力しあったものだけが生き残った」というセンセーショナルな文を取り上げておきたいと思います。

プロジェクトに欠かせない力になるのが、専門性だけでなく、実際にことに向き合う「当事者性」です。その問題に対して決してお客さんではいられないような心持ち、とでも言えばいいでしょうか。専門性を持つ人が、ともに戦ってくれるような動機をつねに持っているわけではありません。ですので、そこにある個々の潜在的な力を柔軟に生かし、適切に組み合わさるように仕組みをつくるのが、コ・デザインのプロジェクトづくりにおいてもっとも重要なポイントです。コ・デザインのプロジェクトにおけるデザイナーの役割は、人々の持つ多様な専門性をオリジナルな視点でつなぎ、長所を引き出していく専門家になると言えます。目に見えない渾沌としたプロセスですが、そこに重要な仕事があります。

(p153)

「たまたま」遭遇したことは、それまでの行動範囲では見えなかったことを知る機会となります。単発のワークショップでも中長期のプロジェクトでも、参加者を「公募」する場合の弱点は、その時点で興味がある人しか来ないことです。意味がない人に対してどう入り方の機会をつくるかはたいへん難しいことですが、その接点をどうつくるかは、一つのデザインと言えるでしょう。よく行われるのが、もう一つの目的をつくり、それに釣られてやってくる人々を巻き込むというかたちです。

(p156-157)

コ・デザインはデザインするプロジェクトであると同時に、学習するプロジェクトでもある。

(p220)

デザインとは学習の場。私の専門分野は何かと問われれば、「人の成長、キャリア形成」だと考えており、この「コ・デザインはデザインするプロジェクトであると同時に、学習するプロジェクトでもある。」という文章は結構響きました。そうなんですよね、参加型デザインや共創は学習の場でもあるんですよね。なんとなく分かっていながら、自分の頭の中から、そうした概念が抜け落ちていたような気がしています。ハッとさせられました。

たしかに北欧のプロジェクトを観察していると、意見がさまざまに分かれる問題に対して誰もが主張しますし、主張できるみんなの場を持っているのですが、決めることはトップがスパッと決める、人々は決定権を持つ人には敬意を持って従う、という姿勢で運営されていました。つまり、コ・デザインのプロジェクトにおいて、人々は政治と同じように「間接的に」意思決定に参加したことになります。

(p239)

北欧に行って思ったのは、みんな平等な意識が強いんですよね。政治家であっても行政職員であっても、学識者であっても、それぞれの経験はリスペクトされつつ、普通の市民であっても生活のプロとしてリスペクトされて議論に加わることができます。声が強い人が仕切るというのはあまりなかったような気がしています。これはデモクラシーが根付いているというのが、一定の私の理解なのですが、その中でも意思決定はしっかりやって物事を進めていく、その辺りに北欧の良さがあるような気がします。

民主主義と重ねあわせてみることで、コ・デザインの存在意義ははっきりと見えてきます。私たちを取り巻くものの多くは、しばしばつかい手側が気づかないうちに提供者側の都合によって、専制的に行われがちなのです。そんなとき、「それは違う」と思う人には誰でも、新しいデザインのあり方を提言することがひらかれていることが大事なのです。

(p240)

国や文化の話にすりかえてしまう前に、目の間にいる人々との「状況」に着目してみましょう。私たちはともに考え、ともに力をあわせていく機会や必然性が単純に少なかったのかもしれません。私たちが、そんな状況をつくりだしてしまったならば、私たちはそうさせているものを再考してみるのは一つの手でしょう。

(p245)

デザインの裾野を広げようとしたデザイン思考が普及し、しばらく経過しました。しかし、期待されたほどの成果につながらないという声も少なくありません。事情はさまざまですが、大きな要因として、考えるための道具を触っただけで、取り組む動機まで生みだすわけではないことが挙げられるでしょう。デザインする活動を支えているのは、考え方のフレームよりも、むしろ態度です。つまり技法や手順だけでなく、私たちはそれをつかって何をデザインしようとし、それを通してどこに向かおうとするのかといった「方向性」を持たないことには、自分が働き始めることはできないのです。

(p249)

そうですよね。デザイン思考はそれなりに普及してきていると思うのですが、それが実際に成果を生み出しているか、イノベーションを生み出しているかと言われれば、確かにそれほどの結果を出していないとも言われます。官民共創の世界で捉えてみても、ようやくデザインプロセス(ダブルダイヤモンド)を用いて、課題定義、解決策検討が進められているような気がしますが、多くのケースでは民間企業と自治体とのマッチングで、その後はカタログマッチングで当てはまれば上手くいき、そうでなければ上手くいかないというが続出しているような気がします。課題検討の時点から本来であれば官民でディスカッションできると一番いいのですが、そうした場がこれまでなかったと思うのです。

自由な発言を支える場は、許容しあうという相互のメッセージを、メンバー全員が身体から積極的なボディランゲージとして発することでつくられます。大事なことなのでもういちど言います。「自由な発言」を支える場は、許容しあうという相互のメッセージを、メンバー全員が身体から積極的なボディランゲージとして「発する」ことでつくられているのです。

(p266)

ボディランゲージが重要! なるほど。体で表さないといけないのか。

デザインが行われるプロセスは、放置すればいつのまにか蒸発して消えてしまいがちです。省察するタイミングで効果的に活用するためにも、活動の最中の写真や映像、その場で考えたことを書いたノートなどの記録を意識的に残すことはきわめて重要です。

(p276-277)

川喜田二郎氏は、「創造することは、ひと仕事やってのけること」と定義し、慣習に従うのではなく、自発的に実践することの重要性を強調しています。やはりゲット社会の原則に反するギブ的な行為に意味を見いだし、推奨しているように思われます。

(p296)

自分たちで何かをデザインすることは、Co〈私たち〉をつくる。私はそう考えます。完璧なものができなかったとしても、自分の働きに満足できなかったとしても、境界ではなく接続する線を見ようとする態度には貢献するでしょう。そういった地道な経験を持ち寄ることでしか、パブリックな領域に接続する線は描くことはできないように思うのです。

(p304)

最後にとても大切なことを述べておられるような気がします。「自分たちで何かをデザインすることは、Co〈私たち〉をつくる」。

つまり参加してデザインすること、共創活動そのものが、パブリックな領域を生み出すのだろうと。自治会・町内会の活動もそうだろうし、行政と民間企業との共創もそうだろうし、まちづくりにおける市民と行政との関わり合いの中でも、共創をしなければパブリックな領域にはなり得ない。そこは物理的な空間としてのパブリックではなくて、言語的、観念的なパブリックの空間だと思うのですが、そうしたものは、一緒に作る過程でこそ生み出される、改めて大切なことを学んだように思います。



ーー プロフィール ーー
藤井哲也(ふじい・てつや)
株式会社パブリックX 代表取締役/SOCIALX.inc 共同創業者
1978年10月滋賀県生まれ。20代に雇用問題に取り組むスタートアップを立ち上げ、30代は雇用問題に取り組むため地方議員として活動。40代の現在は官民のシナジーによる社会課題解決、社会変革に取り組んでいます。
京都大学公共政策大学院修了(MPP)。日本労務学会所属。議会マニフェスト大賞グランプリ受賞。グッドデザイン賞受賞。著書いくつか。
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