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映画「百姓百の声」でおもいだした「百姓の知恵」

「百姓」は土着のインテリ

 ドキュメンタリー映画「百姓百の声」(柴田昌平監督)をもう一度映画館で鑑賞した。
「百姓」は、農民をみくだす言葉としてつかわれてきたが、網野善彦は「ひゃくせい」と読み、農民のみならず、大工や鍛冶屋、石屋、炭屋、材木屋などもふくめていた。
 この映画の「百姓」は、自然とかかわるための100の知恵をもつ土着のインテリだ。
 そんな「百姓」に、私もこれまで出会ってきたことをおもいだした。

冷害に負けない自然農法の稲

 最初に出会ったのは、愛媛県伊予市の自然農法家、福岡正信さんだった。
 田をたがやさず、肥料をいれず、除草もしない。稲を刈りとる前に麦の種をまき、麦を刈りとる前に種もみをまく「不耕起直播」の米麦連続栽培を実践していた。種もみをまく時は大きくそだった麦があるから雑草がはびこったり、鳥にくわれたりしないのだ。
 1993年の夏は長雨がつづき、気象庁が梅雨明け宣言を8月下旬にとりけすほどの大冷害だった。全国の作況指数は「著しい不良」の水準90を大きく下回る74だった。タイ米が輸入されて「平成の米騒動」とさわがれた。愛媛県でも作況指数は87だったが、福岡さんの田は平年とかわらなかった。
「理由は簡単ですよ」と言って、福岡さんは自分の稲と、隣の田の稲を引っこ抜いた。
 福岡さんの稲の根は隣の田の稲の3倍以上にひろがり、細かい根毛がびっしりはえていた。
「水や肥料のやりすぎで、関東以西の水田では、8月半ばにはほとんどの根が腐っている。根が腐るから虫や病気にやられる。水を適切に管理し、健全な根がはっていれば、大部分の被害はふせげます」と断言した。
 みかん栽培も、かつては下草を生やさないのが一般的だったが、福岡さんは緑肥や野菜の種をまく「草生栽培」にいちはやくとりくんだ。
 徹底的に手間をはぶく福岡さんの自然農法は、圧倒的な観察眼によるものだった。【くわしくはこちら↓】

野菜と対話し、放射能被害を克服

 私は2020年からは福島県二本松市の有機農家に定期的にかよっている。
 福島第一原発事故による放射能汚染にあい、多くの農家が耕作をあきらめるなか、有機農法を実践する大内信一さんは「つくってみなければわからん」と例年どおり畑をつくりつづける。
 ほうれん草はロゼット状にそだって畑の土をおおっている。
「僕らが畑をまもったよ」
「なんかおかしな食べ物がいっぱいあるよ」「おいしくないんだよな~」
「でもおなかがすいたらこれもたべざるをえないなあ~」
 おかしな食べ物とはセシウムのことだ。
「やっぱり堆肥や有機質の栄養のほうがおいしいな~」
 セシウムはたべたくないけれど、腹が減ればたべざるをえない--。そんなほうれん草の叫び声がきこえたという。ほうれん草が自分の身を犠牲にして土をまもってくれたとかんじた。
 一方、膝ほどの高さのネギはこう言った。
「私たちはスベスベしてっから、放射能をまったくうけつけませんよ。根っこからも吸わねから、すぐにたべられるし、出荷できますよ」
 百姓の知恵と感性で野菜と対話することで二本松の有機農家は未曾有の放射能汚染を乗り越えた。【くわしくはこちら↓】

農協依存をやめ、みずから価格決定

 農産物の価格は下落し、未来に希望がみえず、離農する人々もすくなくない。
 もちろん、輸入自由化などが大きな原因なのだけど、「農協依存」がもうひとつの原因ではないか。
 日本では1960年まで、官民一体になって食糧増産につとめたが、1961年施行の農業基本法は、化学肥料や農薬、機械による農業の工業化をすすめ、選択的規模拡大による企業的単作大規模経営をめざした。農協がさだめた規格にあわせた野菜づくりをもとめられ、価格も農協が決定した。
 みずからさまざまな作物をためし、栽培法を工夫し、値段をきめる能力を多くの農家はうしなっていった。農協に依存することで、「百姓」は「農業労働者」化してしまったのだ。
 みずから価格をつけることから、農協依存からの脱却がはじまる。そうしたとりくみはいま、全国の「道の駅」でひろがりつつある。
(「消える村 生き残るムラ」(アットワークス、2006年)という本で内子町の道の駅「からり」の例を紹介したので、いずれネットで見られるようにします)

「農業労働者」が飢え、百姓は生き残った


内戦中のニカラグアの国営農場

 「農業労働者」の悲劇は中米のニカラグアという国で目の当たりにしていた。
 ニカラグアでは、1979年の「サンディニスタ革命」で独裁政権がたおれ、コーヒーなどの大農場が農地改革によって、協同農場や国営農場に再編された。小作人たちは農園の「主人公」になった。
 だが、内戦や米国による禁輸で経済が破綻し、サンディニスタ政権は1990年の選挙で敗北する。協同農場は、融資や技術援助をうしなう。コーヒー価格の暴落もあって、国営農場も協同農場も大半が解体されてしまった。
 2001年にはコーヒー産地である中部山岳地帯で多くの農民が餓死したと報道された。温暖な気候で、オレンジやマンゴーなどがふんだんにみのり、小さな土地があればいくらでも野菜はできるのに、なぜ? 「餓死」のニュースが私には信じられなかった。
 いったいなにがおきたのか?
 2002年、山岳地帯のコーヒー産地にすむホセ・パルマ(49歳)の農園をたずねた。
 彼は貧農の家に生まれ、11歳から21歳まで大農園の小作労働者としてはたらいた。結婚を機に2ヘクタールの畑を購入して自立した。
 サンディニスタ革命後、協同農場に参加するようもとめられたが断った。「自分の土地」に愛着があったからだ。全国的な「識字運動」にも参加せず、学校にもいかなかった。そのせいで「反革命」とレッテルをはられることもあった。
 少しずつ土地を買い足し、コーヒーやカカオはもちろん、牛や鶏、豚の糞で堆肥をつくり、フリホール(インゲン豆)やカボチャ、芋、バナナ、椰子、オレンジ……さまざまな作物を栽培していた。
 でもなぜ、規模のメリットがあり、多くの人の知恵をあつめられそうな協同農場が生き残れず、ホセは生き残ったのか。
「彼らは革命前からコーヒーと牛しかあつかってこなかった。国営農場や協同農場でも仕事の内容はおなじだった。革命で協同農場になったって結局『労働者』でしかなかったんだ。いろいろな野菜の作り方を知らなかったのが敗因だよ。いきなり土地もち農民になったって生き残れるわけないよ」
 ホセは、さまざまな作物を知る「百姓」だからこそコーヒー暴落の荒波をくぐりぬけ、外国のNGOをとおしてエコロジーの思想を知ることで「有機」という付加価値をまなんだのだった。

マランガという芋を掘るホセ

生活改善で「百姓」再生

 農業労働者から「百姓」への転換をはかるとりくみは、旧内戦国のエルサルバドルや平和憲法で知られるコスタリカで取材した。かつて日本の農村で流行した「生活改善」の手法が活用されていた。
 こちら↓で紹介しているので、興味がある方はごらんください。

【コスタリカの記事】

【エルサルバドルの記事】


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