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修験の出羽三山にみた、原始宗教の迫力

 奈良の大峯山、九州の英彦山とともに修験道の三大聖地とされる出羽三山には「生まれかわり」の信仰がある。先人は「生まれかわり」をどう信じたのか? ぼくらも生まれかわれるのか?……そんな興味をもって、2023年11月におとずれた。

羽黒神社 御神体の池に数百枚の銅鏡


 宿泊した鶴岡の町から羽黒山にちかづくと、そのふもとに手向(とうげ)宿坊街がある。鳥居のような冠木(かぶき)門をそなえた「○○坊」という宿坊が40軒ほどならんでいる。バスからおりた白衣の人たちがときおりホラ貝をひびかかせる。1872(明治5)年の修験禁止令以前は300軒もあったという。


 宿坊街のはしっこにある「隋神門」をくぐって計2446段の石段の参道にとりつく。
 いったん谷までくだってのぼりかえす。参道の杉の巨木の樹齢は300〜500年で、注連縄がまかれた爺杉は1000年以上だ。
 修繕工事中の五重塔(国宝)をへて50分ほどで頂上についた。

 月山・羽黒山・湯殿山の三神をまつる「羽黒三神合祭殿」(本殿)は高さ29メートルもあり、厚さ2.1メートルの茅葺き屋根は迫力がある。茅のふきかえの工事をしている。

 本殿の正面に池があり、重厚な本殿の姿をうつしている。鏡池とも御手洗池ともよばれる。36×28メートルの池とその周辺から約600の鏡が出土した。池そのものが信仰の対象で、銅鏡をなげいれていた。「池中納鏡」は、平安から鎌倉の中世における信仰の隆盛をしめし、当時は日本三大霊場のひとつだったという。(「三大」って眉唾なんだけど)
 境内の出羽三山歴史博物館(500円)には、長老の山伏が松聖となって、99日間こもって、100日目の大晦日に修行の結果が試されるという松例祭などが紹介されている。1年の禍をあらわした大松明を大晦日にやきはらうと火は衰えてしまう。新しい生命力をあたえるため、新たな清浄な火を切りだす神事で100日間の修行は完結する。
 熊野神が天竺から日本にきたとき、羽黒神が宿をかした。羽黒神が熊野神に西24カ国をゆずり、熊野神は紀州を鎮座地とさだめた。英彦山の神にも九州の9カ国をあたえた……という神話があるらしい。
 熊野側で羽黒についてしるした神話はよんだ記憶がない。たぶん熊野のほうが古いのだろう。
 出羽三山は、崇峻天皇(〜592)が蘇我馬子により殺されたため、息子の蜂子皇子が聖徳太子の力をかりてのがれてひらいたとされている。

生まれかわりの聖地は即身仏のふるさと

 月山頂上は凍結しているからあきらめて、湯殿山にむかう。
 標高600メートルの国道はあざやかな紅葉に彩られている。そこから有料道路で標高1000メートルの湯殿山の仙人沢にむかうと、冬枯れの木が大半をしめるようになった。

 巨大な鳥居がそびえる仙人沢は深山の聖地だ。立山の御厨が池周辺ににている。深い谷を歩いてさかのぼった末に突如ひろがる高原は極楽のように思えたことだろう。
 羽黒山で現世利益にあずかり、月山で死後の体験をして、湯殿の大神より新しい生命をたまわって再生する……とされてきた。
 鳥居のわきに、即身仏がまつられたお堂がある。映画「月山」でミイラ像をつくった秋山太一郎がミイラの模擬像を奉納したものだ。
 全国に十数体ある即身仏のうち8体が山形県で、うち6体は庄内地方に集中している。6人とも江戸から明治初期にかけて、仙人沢で修行していた。
 戦国時代に荒廃した羽黒山を、徳川家康のブレーン天海僧正の弟子、天宥がたてなおした。天宥は羽黒山を天台宗に改宗し、幕府の庇護のもと出羽三山信仰をひろめた。
 それに反発した真言宗側は、湯殿山を「真言の山」として堅持した。
 即身仏の6人は、忠海(1755)、円明海(1822)、鉄龍海(1881)、本明海(1683)、鉄門海(1829)、真如海(1783)で、即身成仏をしたとされる空海から「海」の字をもらっている。もちろん、いずれも真言宗だ。
 即身仏になるには、はじめに米、大麦、小麦、小豆、大豆の五穀を断ち、次に粟、稗、蕎麦、とうもろこし、きびをくわえた十穀を絶ち、木の実や木の皮、草で生きることで脂肪がなくなり死んでも腐敗しなくなる。最後には内臓が腐らないように漆をのんで石室にとじこもり、命が絶えるまで鈴をならしながら読経する。鈴がならなくなって1000日後、ほりだされて即身仏としてまつられた……という。
 だが、いくら栄養をけずっても腐敗をふせぐのはむずかしい。1960年代の新潟大学医学部の現地調査によると、多くの即身仏が、死後人工的に乾燥させるなどの加工がほどこされていたという。

生命の根源を思わせる圧倒的な迫力の御神体

山姥

 仙人沢から上はシャトルバスがあるが、徒歩でも30分だ。
「血の池権現」というのは丹生水神神社は、赤い水がわいているから血の池とよばれるのだろうか。となりには「湯殿山山姥」がまつられている。
 20分ほどでシャトルバスに終点についた。ここから先は撮影禁止だ。

ここから先は撮影禁止

 梵字川の谷にくだると対岸に石垣があり、白い綿菓子のようなものをつけた棒が林立している。白いものは御幣で、濡れないようにビニール袋につつんでいるのだ。
 小屋で裸足になり、500円を奉納してお祓いをうける。人型の紙で自分の体をさわって隣の小さな池にうかべる。
 冷たい岩の道を裸足で10メートルほど歩くと、目の前に直径4,5メートルの赤みがかった楕円の巨岩があらわれた。てっぺんからは湯がざあざあとながれ、真っ白な湯気があたりにたちこめている。生命の根源である女陰にたとえられている。鉄分をふくんだ湯のせいで赤みがあるのだろう。湯殿山神社はこの巨岩を神体とし、本殿はない。明治以前は御宝前(ごほうぜん)とよばれていた。
 巨岩のわきを、ご神体からながれてきた御神湯で足をぬらしながらのぼる。湧出点に近いところはけっこう熱い。
 巨岩の上からは遠くの山が遠望できる。足下には滝が落ちているらしく、ゴーゴーと轟音がひびく。
 神体のちかくの谷の洞窟には、祖先の霊をなぐさめるお宮がある。人型の紙に亡くなった人の名をしるして水で岩肌にはりつける。ぬれた紙がとけてなくなると成仏するという。
 最後は谷沿いにつくられた足湯で冷えた足をあたためる。
 かつて「語るなかれ」「聞くなかれ」とされ、湯殿山で見たことは口にしてもいけなかった。口にしてはいけない、というより、この圧倒的な迫力と存在感をつたえる言葉が見つからないのかもしれない。
 松尾芭蕉はこう詠んだ。

 語られぬ湯殿にぬらす袂かな

月山への登山道から

(荒沢寺と即身仏の寺を訪問できなかったのが悔やまれる)

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